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懐古的日本文学

主に近代以降(明治・大正・昭和)の日本文学、大衆小説の紹介や勝手な分析と感想、その他人文社会学系の本の紹介も。

カテゴリー "文豪" の記事

⑨-3「三四郎」夏目漱石/1908年

「三四郎」夏目漱石

(つづき)


④三四郎と美禰子の切ないすれ違い  
 上京した青年が新しい仲間や女性と出会い、恋に落ちるという、ごくありふれた単純な筋なのに、こんなに面白く読ませるのは、ひとえに漱石の人間描写力の高さ故だろう。
  美禰子の表情や台詞一つとっても、全てに意味が込められている。
そして、さまざまな解釈を加えられるところも、この作品の魅力だと思う。

 無意識に心を通わせ合いながらも、結局すれ違っていく男女の想いというのに、とても惹き付けられる。
 想いを口に出すこともせず、相手の心を勝手に決めつけて、自己完結しているのが、もどかしくもある。

長期的な自分の幸せのみを追及する美禰子は、良く言えば自分に素直、悪く言えば、利己主義な女なのだろう。
 現代の目から見ても、男を煽る美禰子の手腕は、なんとも鮮やか。大したものである...
 そこで、わかりにくい美禰子の心情描写について、もう少し深く分析してみたい。
 
●様々な見方ができる作品なので、以下は勝手な私の解釈となります。

●美禰子の高等な駆け引き
・意味のない言葉
 最初の出会いの場面では、美禰子は、明らかに三四郎を意識しつつ、彼を惹き付けるような行動をとっている。
 これが、彼女のすごいところであろう。男が自分に対して好意を持っているのをいち早く感じ取りつつ、相手を煽る。
 普通の(明治の)女性ならば、照れるかはにかむか、そんなところだと思う...とても自己演出する余裕なんてないに違いない。

 三四郎池での場面。花の匂いを嗅ぎながら彼に近づいてくる、美禰子。
 椎の木の前で顔をあげ、わざわざ連れの看護婦に「これは何でしょう」と尋ねる。
 彼女が、まさか椎を知らない訳でもあるまい。
会話に意味はなく、肉声を発してさらに男の注意を引き付けるということが目的だったのだろう。
 その後、三四郎を見つめ、自分が嗅いでいた白い花を落としていく。
この一連の動作で、彼女は、自分という存在を三四郎に深く焼きつけている。

 また、展覧会に二人で行き、偶然野々宮さんに会った場面。彼女は三四郎に何事かささやく。
三四郎は何を言ったのか聞き取れず、後で聞き返す。すると...

美禰子「野々宮さん。ね、ね」
三四郎 「野々宮さん……」
美禰子 「解ったでしょう」
美禰子の意味は、大湊の崩れる如く一度に三四郎の胸を浸した。p.197  


 彼女は、野々宮さんへの当て付けに、三四郎に口を寄せただけであった。
 ここでも、この素振りを見せることが、彼女にとって重要なのであって、その言葉に意味はない。
 この行為で、三四郎と野々宮さん双方の感情を乱すことに成功している。

「だって」「私、何故だか、ああ為たかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
(中略)畢竟あなたの為にした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。p.198


 三四郎は嫉妬も込めて静かに怒るが、多分ここで美禰子の自分への気持ちを知る。


・愚弄
「この上には何か面白いものが有って?」p.151  
 三四郎が、一番初めに、自身が彼女に愚弄されていると感じたセリフ。
 運動会を抜け出てきた三四郎がいた場所に何かあるのかと聞く美禰子。
 三四郎が運動会そっちのけで、彼女を見ていたのを感じ取り、故意に意地悪している感じもある…
 個人的には、丘の上で自分たちが歩いてくるのを、ずっと見ていたの?という気持ちと、何か決定的な態度を取ってほしくて、促している言葉のように思えるが。
 余談だが、ここで「上がってみましょうか」「絶壁ね」などとさりげなくフォローするよし子が本当に良い子で、優しい。

 その後、与次郎が競馬ですったお金を三四郎に直接手渡したいという美禰子。
 そのことに対して、美禰子は自分に好意を抱いていると、一時は自惚れる三四郎。
 しかし、運動会での一件もあり、彼は彼女が彼に金を手渡すのは、自分を自惚れさせたり彼女のことで心を乱させたりするためだと感じてしまう。
 疑り深い三四郎…

・具合が悪くなる  
 美禰子は度々具合悪そうにしているが、これも結婚について思い悩む彼女の心を表しているのだろう。
 例えば、菊人形を観に行った時。美禰子は、気分が悪いと、皆から離れる。それは、ちょうど野々宮さんが下宿生活に戻るという話になりそうな時だった。菊人形でも野々宮さんを気にしているが、彼は一向に彼女を気に留めない。
 多少は野々宮さんの気を引く気もあって、三四郎とともに仲間から離れたのだろう。

 また、絵のモデルとなっている時、三四郎が訪ねてくると、彼女は顔色が優れない。
 彼女は、原口に近々兄が結婚するのだと言っており、自身も結婚を決心するも、まだ迷いがあったのだろう。
 三四郎は、この彼女の顔色の変化は、自分がまき起こしたのではないかとうぬぼれるが、あながち的を射ているかもしれない...

・好意
  一見分かりにくいが、 美禰子は、三四郎に迷える羊の絵はがきを送ったり、香水を選んでもらうなど、数々の好意のサインを出していたと思う。
 一番わかりやすいのは、彼女が三四郎にお金を貸すやりとりではないか。
 与次郎に言われたために金を借りに来た、と言った三四郎に「それでいらしったの」と聞き直す。
  美禰子が彼に期待していたのは、自分に会いたいから来たというそぶりなり、言葉だったのだろう。
 しかし、三四郎はあくまで金を借りに来たという硬い態度なので(内心は会いたくて来たのだが、それを伝えられず)、美禰子は失望する。
 そして、あんまりお金を借りたくなさそうな彼の態度に、彼女は冷淡になる。


 美禰子は、三四郎の気持ちを最初から知っていて、彼が自分への想いを口にするよう、言葉や態度で煽り、何度か、促してもいる。
 しかし、不器用な彼はなかなか本心を言えない。
 お金を返す時、三四郎はようやく決死の告白?「あなたに会いにいったんです」と伝えるが、時すでに遅し…美禰子は、「何をいまさら...」というようなため息で返す。もうこの時点で、婚約者が迎えに来ていて、三四郎を驚かせる。

 最後に会った時、三四郎が選んだ香水を染み込ませたハンカチを出してみせる美禰子…。微かなため息と落ち着いた表情。心が決まった彼女は、もう過去にかかずらってはいない。


…これらの心情を少しでも読みとれていたならば、三四郎はたいしたものだったと思うが…。
 彼は、一歩踏み出すのが遅すぎたのだ。
彼が素直に彼女の好意を受けとれず、始終疑ってかかっていたのには、冗談か本気なのかわからない彼女の態度にも問題がある...。
しかし、最後出来上がった美禰子の絵を見て、「ストレイ・シープ」とつぶやく三四郎は、最後の最後で、彼女の気持ちがわかったのではないか。自分と出会った時の姿の、絵の中の彼女。美禰子にとっても三四郎は特別な人だったと思う。
そうであってほしい...
初恋は実らないから美しいのだろう・・・。

三四郎・3


・引用文献:「三四郎」夏目漱石 新潮文庫(1948)

⑨-2「三四郎」夏目漱石/1908年

「三四郎」夏目漱石 1908年(明治8)

①明治の青春(続き)
・三四郎の性格
 三四郎はベーコンの二十三頁を開いた。他の本でも読めそうにはない。ましてベーコンなどは無論読む気にならない。けれども三四郎は恭しく二十三頁を開いて、万遍なく頁全体を見廻していた。三四郎は二十三頁の前で、一応昨夜の御浚をする気である。P.13

 三四郎は、口下手で、人と会う前に色々問答を想像したり、会った後でやり取りを後悔したりする、極めて日本人っぽい性格である。
 この時代の(今も?)標準的日本人学生という感じだろうか。
 頭がいいので思考が常に動いているが、口に出さず腹のなかで相手を色々評している。また、わからない分野や見識には黙っていて、知ったかぶりをして適当な相槌をうつ。それでいて人付き合いは好きなようだ。結構すぐ苦悩するが、それほど引きずらない。
 学生であるということを除けば、美禰子の相手は三四郎でもいいような気がする。誠実で信用できる。

② 新しい女性像・美禰子
「馬券で中るのは、人の心を中るよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引の附いている人の心さえ中てみようとはなさらない呑気な方だのに」p.186

 美禰子は、男性に付き従う旧時代の封建的な女ではない。自分の意思を持ち、男性と自由に意見し、時に惑わせる。まさにしなやかな奔馬という感じだ。彼女は、新時代の女性なのである。
 また、彼女は英語を勉強しており、海外の文学や思想に明るい。

 顔つきも、洋画家の原口が彼女にモデルに頼むように、近代的な美しさを持っている。
 三四郎も原口も、彼女の顔の中では、彼女の「目」に最も惹かれているのだが、それは単に造作が綺麗なだけではなく、彼女の目が、彼女自身を、つまり意志を強く写し出す目だからだろう。
 彼女の目は、時に鋭い視線を投げかけ、男を嘲笑し、苦悶の表情を浮かべる。封建時代の女とは違う自由な意志を持ってくるくると動き回る。

 知識人達は外国の小説に出てくる新しい女性像を彼女に重ね合わせる。こういう女を知ると、もう従来の従順な女に魅力は感じられないに違いない。
 しかし、このような女性に魅力を感じる男性が表れた、というのは時代がかなり進んだ感がある…。西洋かぶれているのだろうか。

 妖婦型と淑女型にわけるとしたら美禰子は明らかに前者だろう。とにかく注意を惹く女だということは確かだ。
周りの男達はよく彼女の噂話をしている。
 三四郎や野々宮に気があるそぶりを見せたあげく、ほかの男と結婚してしまった美禰子は、果たして悪女なのだろうか。二人は彼女にたぶらかされていただけだったのだろうか…。
 三四郎が、美禰子のセリフや行動に「愚弄」されたと感じる場面があるが、私はちょっと違うと思う。やや高慢な女ではあるとは思うが…
 ③で詳しくその理由を述べたい。


③ ストレイ・シープ(迷える羊)
 「ストレイ・シープ」は、美禰子が何度も三四郎に向かっていう有名なセリフ。「迷える羊」とは、三四郎だけではなく、美禰子自身の事でもある。むしろ三四郎より彼女の方が、「迷える羊」なのである。
 ちょっと見には、一見自由に生きている美禰子に、この言葉は当てはまらないような気がする。結婚だって、三四郎でも野々宮さんでも彼女なら誰とでも結婚できそうである。しかし、美禰子は自分の将来と結婚に関する苦悩と葛藤を抱えていた。

・明治の女性と結婚
 この彼女の葛藤を理解するには、この時代の背景を理解する必要がある。
この時代、通常、女性は10代後半で結婚する。女学校の在学中に結婚する女性も少なくない。(なんのための学校なのか…)
 そして、結婚せずに卒業した女性は「卒業面」と言われる。
いわく、美人は在学中に嫁に貰われていくため、卒業者=不美人の代名詞ということだ。
 美禰子は明らかに違うが…
 しかし、彼女は三四郎と同年代というから、22,3。すでにオールドミスのような年齢に達している。

・余談だがこの「卒業面」について書かれている井上章一氏の「美人論」がとても面白い。当時の女学校の、授業参観によって生徒たちを(有力者に)一般公開、結婚を斡旋するという驚きの結婚システムが詳しく書かれている。もちろん、美人から順に売れていく。まるで美術品オークションのよう…


 話を戻すと、ある一定以上の家の女性は、普通自ら生計を立てる手段を持たない。そのため結婚して夫に養ってもらう必要がある。結婚は、いわば女性が生活していくための手段なのである。
 当時の結婚は、一緒にいて楽しい、馬が合うとかよりも、家同士が釣り合うか、男性が経済的に女性や家族を養っていけるかが、重要であった。
 いくら新時代の女性でも、経済問題となると、よっぽど資産家の娘でない限り、社会的弱者である。職業婦人が定着するにはもうちょっと時代を下らなくてはならない。 
 両親を早くに失い、稼ぎ手である兄も近々結婚してしまう美禰子は、自身の結婚を実際の生活問題として捉えていた。

 ではなぜ、美禰子の周りの男性たちは彼女の結婚相手たり得なかったのか。
 美禰子が想いを寄せた相手について、個々に見ていきたい。


・美禰子と野々宮さん
 まず美禰子は、最初、三四郎の同郷出身の先輩・野々宮さんを好きなそぶりであった。
 しかし、野々宮さんは収入面で彼女の結婚相手としては、却下であろう。
 美禰子にみすぼらしい思いをさせてはいけない…彼女はそういう女ではない。豪華な着物を、惜し気もなく汚い地面に着けて座っているような女だ。

 それでも美禰子は、もし野々宮さんが真剣に彼女との将来を考え、決心してくれたとしたら、プロポーズを受けたのではないか。美禰子は、彼の研究態度を尊敬している。
 また、彼女も英語が得意で聡明なので、彼の稼ぎが十分でなくても、何か文を書いて家計の足しにすることができそうな気もする…
 私もこういう研究熱心で朴訥なタイプはよいと思う。
 しかし、こういう学者にはありがちなことだと思うが、女性のことよりも研究一徹の彼は、研究に集中するために下宿生活へと戻ってしまい、美禰子と結婚する機会を永久に失った。彼女も落胆したことだろう。そのあと、彼の前で三四郎にくっついて見せつけたり、「責任を逃れたがる人」など彼を非難する言葉を吐いていることからも、それがうかがえる。


・美禰子と三四郎
 個人的には、三四郎は、誠実だし、実家は田舎だが豪農っぽいので、美禰子と釣り合うと思うのだが…。
 
 では、なぜ三四郎ではだめだったのか。
 無論、三四郎がその時点で、経済力を持たない学生であるためだ。
 この時代、男女の結婚適齢期には大きな開きがある。
 オールドミス・美禰子には、三四郎が社会人になるまで待つ時間は、もう残されていないのだ…事態はかなり逼迫している。
 では美禰子の思わせぶりな態度は何だったのか。最初から結婚する気がないのなら、そんな態度を取らなければ良かったのではないかというのも、もっともである。

 ここで私は美禰子の弁護に入ろうと思う。
 美禰子が、自分のことで三四郎を悩ませて愉しんでいるというのは、少々違うと思う。多少三四郎の被害妄想も入っているのではないか。
 ちなみに漱石も、女中など周りの女達が自分の悪口を言っていると思い込んだり、バカにされたと思ってキレたりすることが、しょっちゅうであったという。この彼の神経症の話は、岩波明著の「文豪はみんな、うつ」に詳しい。
これらの漱石の被害妄想は、自身の対人関係の中での会話や態度に対する自信のなさからきているのだと考えられるが。

 そして、三四郎もやや美禰子を妖婦と見ている。確かに美禰子は本心が分かりづらい女である。
 一見、三四郎を弄んでいるようにもみえる。
 確かに人並み以上の美貌と才気を持っていれば、そのようになっても仕方ないかもしれない…。しかし、彼女は三四郎のことを何とも思っていないのに、ただ思わせぶりな態度を取っていたのではない。
 私も最初は「三四郎の事を結局なんとも思ってなかったんじゃないの、美禰子ヒドくない?」と思ったが、あとがき解説を読んで、なるほどと思った。
 これは、新潮文庫のあとがきの解説にもあるが、美禰子が絵のモデルとなったときに描かせたのは、三四郎と大学の池で初めて会ったときのポーズであった。
 彼女が描いてほしがったのは、彼女の独身時代の中で自分の最も輝ける日の一ページだったのである。
 それは三四郎と出会った日であった。
 これを大切な思い出として絵にして残すことで、彼女はその思いを封印して結婚を決意したのだろう。
 そこには深い思いがある。
 
 そうしてみると、彼女の三四郎への態度もセリフも、彼女なりに悩んでいるからこその行動と思われる。
 つまり、三四郎が自分の結婚相手となりうるか、見極めようとし、彼の反応を試していたのではないか。4.5年待つに値する相手かどうか、彼女なりに品定めしていたのではないか。
 結局、三四郎は彼女のおメガネにかなわず、美禰子はほかの人と結婚してしまうのだが…
 彼女はロマンティック・ラブ・イデオロギー(恋愛結婚)に憧れながらも、時代と自身の境遇がそれを許さないことを知っていた。

 でも、彼女は最後までかなり迷っていたと思う。迷っていたからこそ、三四郎と最後にあったときこのセリフを言ったのではないか。
 「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」p.280


 余談になるが、ほかの人物は、結婚相手としてどうなのか。
 例えば、三四郎の友人・与次郎は調子が良くて如才ないタイプなので、この中で一番給料を取りそうではある。文学への熱もありそうだが、器用そうなので月給取りになりながら、文筆をするというような二足のわらじを履きそうだ。
 彼には、行動力があり、人を動かす力がある。「広田先生を帝大の教授にする活動」に関する文芸や演説はすごい。まさに時代を背負っているという意識を持つ新時代の学生だ。
 反面、口が上手く相手に構わず生意気な口をきく、金を返さないなどの欠点がある。
 また、女性に関しては意外と冷淡で、「女は自分と同世代の男を相手にしない」だの、「美禰子を好きになっても仕方がない」と三四郎に忠告する彼はとても賢いと思う。
 商売女には自分の素性を知らせず、医大生だと騙し、別れるときには研究が忙しくなって遠くへ行くことになったと平気でうそをつくなど、なかなかの食わせ物だ。
 しかし、彼も現時点で学生という点で落第である。なかなか大物になりそうなので惜しい...。

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引用文献
・「三四郎」夏目漱石 新潮文庫(1948)
・「美人論」井上章一 朝日文庫(2017)
・「文豪はみんな、うつ」岩波明 幻冬舎新書(2010)

⑨-1「三四郎」夏目漱石/1908年

「三四郎」夏目漱石 1908年(明治41)
~新時代の学生・三四郎の青春と恋の苦悩~


 個人的に、明治の青春という感じがとても好きである。全体を通してどこか明るさが感じられ、現代と相通ずるものがある。同様の理由で「坂の上の雲」の前半部分も相当好きなのだが…
 主人公が、夢と希望に満ちて上京、国と時代が活気に満ちていて東京はその中心地。見るものすべてが真新しく圧倒される感じ、新しい出会い、友情…
この筋だけなら、明治を描いた小説としては、多々あるのだろう。私が漱石作品で「三四郎」を特に好きな理由は、多分にヒロイン・美禰子の存在によるところが大きい。美禰子が出てこなければ、本作の面白さは半減しただろうとさえ思う。

 また、漱石作品は主人公の心情描写や周りの情景描写が細やかで、描く性格がとても日本人的。かなり共感できる。主人公・三四郎は静かなたちなのであまり感情をあらわにしないが、心中では常に感情の嵐が吹き荒れているのが面白い。
 人物の動きも逐一細かく、三四郎と美禰子の出会いの場面など、文章を読むとスローモーションで脳内再生できるほどである。  理屈っぽい言い回しにいちいちユーモアを挟んでくるのは、もしかしたらイギリス文学や留学生活から覚えた技かもしれない。
 上手い文が多いので、引用したい文章が多すぎて困った。

~あらすじ~
 帝国大学に入学するために熊本から上京してきた三四郎は、東京で、同じく帝大生の与次郎や彼の下宿先の広田先生、同郷出身の野々宮さんなどに出会い、親しくなる。
 そんな中、野々宮さんの友人の妹・美禰子と出会い、惹かれていく三四郎だが、彼女の本心がわからず、心の中で苦悩するようになる...


①三四郎の東京生活と明治の青春
・新しい価値観
 三四郎は、上京してくるまでは、いくら書物で学問を学んでいるとはいえ、地元の熊本のみが彼の生活や思考を作る全世界であった。上京し、日本だけではなく世界を見据える目を持つ、新時代の知識人の価値観に触れる。

三四郎:「然しこれからは日本もだんだん発展するでしょう」
広田:「亡びるね」「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」
    「日本より頭の中の方が広いでしょう」「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
  この言葉を聞いたとき、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った。P.21


三四郎が「東京に来た」ということを強く感じる象徴的な場面だと思う。(まだ汽車の中だが…)大都市の西洋建築や文明的な設備、人口の多さよりも、広い思考や価値観を持つ人に出会ったときの新鮮な驚きの方が、彼により強く「東京」を感じさせた。

 ここで彼が自分を「卑怯」と評したのが、興味深い。九州は明治維新を成し遂げた志士たちを多数輩出した土地だ。
 このような風土で生まれ育った三四郎は、「日本の未来は明るい」と信じて疑わなかった。そのような周りの意見をうのみにして、 自分の頭で物事を考えようとしなかった自分や、当たり前を当たり前と信じて疑うことをしなかった自分を「卑怯」だと思ったのだろう。

  しかし、広田先生は先見の明がある。この「亡びるね」発言に、三四郎は、「どうも日本人じゃない様な気がする」とすら言っている。日露戦争に勝利した直後で「これで日本も一等国」と世間は沸き立っている時代である。
 この時点でこの先起こる泥沼戦争をどうして予測できようか。
 広田先生にこの発言をさせた漱石は、その留学経験から、広い視点で日本を見ることができていたのだろう。
 その前にも「どうも欧米人は美くしい。お互いは哀れだなあ」と日本を卑下する言葉が満載。
 漱石先生の「調子に乗るな、世界と肩を並べるにはまだ早い」という訓戒が込められているような気がする。

・新しい仲間
 三四郎は呆れ返った様な笑い方をして、四人の後を追掛けた。四人は細い横町を三分の二程の広い通りの方へ遠ざかった所である。この一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本当時のそれよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。P.112

 三四郎はある日、東京で親しくなった、美禰子や広田先生、野々宮さんと彼の妹のよし子と一緒に菊人形を見に行く。この一文は、三四郎が、単純に新しい仲間ができて喜んでいる文章ではない。(もちろん、喜んではいるのだが。)
…最後まで読むとそのことがわかってくる。

 彼は東京に来てから、自分を取り巻く世界を、第一から第三までに区分して考え始めた。
 第一は故郷・熊本を取り巻く世界。第二は広田先生、同郷出身の野々宮さんのような、世間の評判を気にせず、出世を求めず、自分の研究に勤しむ暮らしをしている人々。第三は、立身出世を果たし、美しい女性とともにある世界。
 まさしくこの瞬間、彼と新しい仲間は、第二第三の世界にいる。三四郎はまだ自分がどちらに属するのかわからない。それくらい、彼の未来はまだ遠い。

  いつも野々宮さんと美禰子が親しい様子なのが気になり、彼らの仲をずっと疑って、二人が結婚するのではないかと考えていた三四郎だが、これが全く見当違いなことがのちに判明する。
 この区分で分けるならば、野々宮さんは第二、美禰子は第三の世界の住人。

 美禰子は第三の世界の住人たる人と結婚してしまう。この小説では異なる世界の人々は決して交わらない。
 ましてや、この区分に区分けできない学生・三四郎には、美禰子の結婚相手として名乗りを上げる資格すらないということになる。
 
 このような切ない展開を踏まえて読むと、上記の一文は、在りし日の思い出の描写として美しいワンシーンである。

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・「三四郎」夏目漱石 新潮文庫

⑧「途上」谷崎潤一郎/1920年

「途上」谷崎潤一郎 1920年(大正9)
~徐々に暴かれていくある男の身の上~


 谷崎の探偵小説の傑作。彼自身が外国の探偵小説やミステリーに耽溺していただけあって、彼は実は探偵小説の名手でもあるのだ。しょっちゅうマゾっぽい小説ばかり書いているわけではない。
 第三者が主人公を論理立てて追い詰めていく内容に、読んでいてぞくぞくする。

~あらすじ~
 ある日の夕方、会社を出た湯河は見知らぬ中年紳士に声を掛けられる。
 その男は湯川に、奇妙な質問を次々と繰り出し始める…。


「偶然の中の必然と単純な必然とはやはり意味が違いますよ。」p.61
「あれを或る一個の人間の心理と結びつける時に、ここに新たなる問題が生じる、論理がもはや単純な論理ではなくなってくると云うことに、あなたはお気付きにならないでしょうか」p.62


 ●感想 と谷崎の小説について
 話の着地点がどこへ行くのか分からず、思わずページを捲る手が止まらない。
 このように、話がどんどん根底から覆されていく物語展開は、この小説に限らず、谷崎文学の特徴でもあるだろう。
 「痴人の愛」、「卍」、「細雪」などの長編でも、のり良く次々と物語が転換していき、読者をぐいぐい引き込んでいく。
彼の小説はくどいくらいに説明的であるし、あっと驚く展開を用意しているものも多い。
 話がどこに行くのか、物語の結末を想像しづらいのもよい。
 読者へのサービス精神を遺憾なく発揮していて、わかる人にだけわかればいい、解釈は読者にゆだねるというようなインテリ特有の高慢さが醸し出されている(と感じた…)漱石や鴎外、川端作品などと比べると、谷崎の小説は本当に親切なので、好きだ。
 彼の小説は、なんかここ理解できなかった…ということがない。比喩が難しくて解釈の余地があり、想像を掻き立てる文学も良いには良いのだが。それらは、他の人の意見を読んだり、解釈を巡る論文を調べたり、そういう面白さもあるのだけど。
 ただ、読者にわかりやすいという意味では、谷崎の小説は、大衆小説的なのだろう。
扱っている事柄も、現代設定のものは特にだが、自身のフェティシズムや女性、犯罪、それらの妄想、家庭の事など、私小説っぽいのが多い。

●谷崎自身の心理背景 
 この小説を書いたころ、谷崎はのちに最愛の妻となる松子夫人(当時人妻)を思う心から、現妻である千代子夫人を疎ましく思っていた。この10年後にかの妻譲渡事件が起こる...
 だからこの小説には、その胸中が如実に表れているといえよう。女性相手に、こんな想像を巡らせているなんて恐ろしい。
 夢中な女性には一途な愛を捧げひざまずく一方、興味を失った女性にはひどい冷酷さを見せる谷崎が怖い...。

谷崎途上

・引用文献「谷崎潤一郎犯罪小説集」谷崎潤一郎著 集英社文庫(2007)より「途上」

④「秘密」 谷崎潤一郎/1911年

「秘密」 谷崎潤一郎 1911年(明治44)
~「秘密」を追い求めた男の成れの果て~


  谷崎の初期の短編。彼特有の嗜好やフェティシズムが色濃く反映されている。(彼の小説はほとんどそうであるが…)
彼の短編の中では、個人的にかなり好きなお話…というか文章が凝っていてよい。
 モダンな浅草六区やさびれた裏道など、当時の下町の様子が思い浮かぶ。
 生々しいのに幻想的。特に女性の描写力と表現力の高さは一読の価値あり。
読む者を倒錯的な幻想世界へと導く。
 
~あらすじ~
「私」は世間から隠遁して、華やかな下町の隙間に見つけた秘密めいた住みかで、探偵小説や犯罪小説に耽溺する日々を過ごしていた。
 ある日、「私」は古着屋で女物の縮緬を見つけてどうしてもそれが着てみたくなり、それを機に化粧を凝らして女装を始めるようになる。
次第に女装姿で頻繁に夜の街に繰り出すようになった女の「私」は、夜の映画館で、昔一時期だけ関係を結んでいたT女に会って…



●見どころ(以下、物語の核心部分を含みます)

①「私」独特の嗜好・フェティシズム
・普通の刺激では満足できない
「その頃の私の神経は、刃の擦り切れたやすりのように、鋭敏な角々がすっかり鈍って、余程色彩の濃い、あくどい物に出逢わなければ、何の感興も湧かなかった。」p.86
「普通の刺戟に馴れて了った神経を顫い戦かすような、何か不思議な、奇怪の事はないであろうか。
現実をかけ離れた野蛮な荒唐な夢幻想的な空気の中に、棲息することは出来ないであろうか。」p.87


・「秘密」に惹かれる
  「私は秘密と云う物の面白さを、子供の時分からしみじみと味わって居た。かくれんぼ、宝さがし、お茶坊主のような遊戯―殊に、それが闇の晩、うす暗い物置小屋や、観音開きの前などで行われる時の面白みは、主としてその間に「秘密」と云う不思議な気分が潜んで居るせいであったに違いない。」P.87

・美しい衣服や生地の感触に興奮
 「一体私は衣服反物に対して、単に色合いが好いとか柄が粋だとかいう以外に、もっと深く鋭い愛着心を持って居た。(中略)丁度恋人の肌の色を眺めるような快感の高潮に達することが屡々であった。」P.89

それらが高じて、秘密裏に化粧して女装を始める「私」…。
「文士や画家の芸術よりも、俳優や芸者や一般の女が、日常自分の体の肉を材料として試みている化粧の技巧の方が、遥かに興味の多いことを知った。」P.90


②昔の女との邂逅
 女装姿の「私」は、夜の映画館で、昔、上海行の船舶の中で関係を持ち、捨ててしまった(すごい表現)T女に再び出会う。
――自分の扮装に自信を持っていた「私」であったが、再会したT女は女装姿の「私」よりもはるかに美しかった…(当たり前だけど)

「女らしいと云う点からも、美しい器量からも、私は到底彼女の競争者ではなく、月の前の星のように果敢なく萎れて了うのであった。」P.95

「顔面の凡ての道具が単にものを見たり、嗅いだり、聞いたり、語ったりする機関としては、あまりに余情に富み過ぎて、人間の顔と云うよりも、男の心を誘惑する甘味ある餌食であった。」P.95

―さぞかし妖艶なのだろう…。この文章を見るたびに、私は勝手に、女優の若尾文子さんとか有名な昔の芸者<下谷のさかえ>さん(興味のある方は検索してほしい。とても妖艶な美人で度肝を抜く)最近では石原さとみさんを思い出してしまう…。

女装した自分より美しい昔の女に対し、「私」の心は嫉妬→悔しさ、憤怒→恋慕→征服欲へと目まぐるしくゆれ動く。
女装姿で負けてしまったから、彼女を男として征服してみたいなどと考えはじめ、もはや倒錯しすぎていて、よくわからない。

そして、手紙をひっそり彼女の袂に入れる「私」↓
「今夜久し振りに君を見て、予は再び君を恋し始めたり。(中略)明晩もこの席にきて、予を待ち給うお心はなきか。(中略)ただ願わくは明日の今頃、この席に来て余を待ち給え。」P.96
―虫がいい上に、最後ちょっと上から目線…

以外にも、T女の返事は好感触 ↓
「それにつけても相変わらず物好きなる君にておわせしことの可笑しさよ。(中略)
妾(わらわ)に会わんと仰せらるるも多分はこの物好きのおん興じにやと心許なく存じ候えども、あまりの嬉しさに兎角の分別も出でず、唯仰せに従い明夜は必ず御待ち申す可く候。」p.97


映画館で手紙のやり取りをするなんて、秘密っぽくていい。
「私」に対して、対面では驕慢な態度を見せていた女だが、手紙では、再会できて嬉しい!という喜びやしおらしさが出ていて可愛い。ギャップが良い。(これも手管か…?)

会瀬の待ち合わせも、女は自分の家は知らせず、目隠しして人力車で、とある場所へと「私」を連れていく。もはや全てがプレイ。「私」もかなり大喜びである。

しかし、彼女との関係でも、秘密めいたやり取りや探偵趣味に興奮を見いだしていた「私」は、女の素性を知った途端に彼女に興味を失ってしまう。ひどすぎる…

女はこういう「私」の性癖を知り尽くして、衣装を様々変えて、嗜好を凝らしたり、素性や家を秘密にしたり色々手を尽くしていたのに…。
そして女は、「絶対に自分の素性を探ろうとしないで下さい」と懇願していたのに…。
なんか童話の「鶴の恩返し」とか「みるなのくら」みたいだ。
全てを知ってしまった瞬間に魔法がとけてしまう。
それなのに、「私」は自分で、彼女の秘密を暴いてしまった。
果たしてこんな男を満足させられる女性はいるのだろうか…
彼の迷宮は続く。


●余談
 谷崎は、女性が自分の性癖を飲み込んだ振る舞いをしてくれたらいいな、という妄想を常々抱いているらしく、短編「白昼鬼語」でも、美しい女の犯罪を暴くために、女に犯罪者の演技をさせるというぶっとんだ話がある。面白い。
他にも、「蓼食う虫」や「富美子の足」でも彼の嗜好の望みを叶えてくれる女性が登場する。
(広い目で見ると彼の小説のほとんどは、彼の好みに合った女性が出てくる。それぞれモデルもいる。)

 実際にはそんな都合の良い女がいるわけもないのだが、
(最後の妻で谷崎最愛の松子夫人は色々彼の嗜好に付き合っていたようだが)
 自らの欲望を自給自足する文章を書く能力のあるところが、彼のすごさだろう。

秘密

・引用文献:「刺青・秘密」谷崎潤一郎 新潮文庫(1969)より「秘密」