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懐古的日本文学

主に近代以降(明治・大正・昭和)の日本文学、大衆小説の紹介や勝手な分析と感想、その他人文社会学系の本の紹介も。

カテゴリー "文豪" の記事

⑬-2「雪国」川端康成/1937年

「雪国」川端康成



②自然風景の描写による表象
 最初読んだときはあまり気づかなかったのだが、物語中、何度も自然描写と島村・駒子の心情が呼応させられている。

 二人が最初に出会ったときに見られる「もつれ合いながら飛んでいく蝶」p.28
追い詰められ、その姿を消されまいとあせっている「蜻蛉の群」=駒子
 松風にゆれる鈴の音=駒子
 最後、限られた時間しか会えない二人のこれまでの月日と、別れを予期させる「天の川」…

細かい描写も計算されていてすごいと改めて思った。

③非現実的な世界としての「雪国」

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」p.5

 あまりにも有名なこの冒頭から、すでに本小説の意図が示されている。
  冒頭の列車の中で島村は、窓に映っている葉子の姿をずっと見つめている。
 夕暮れ時は、窓の世界の景色と葉子の姿が混ざり合ってぼんやりとしているが、やがて夜光灯がつくようになると、葉子の姿(目)が強く浮かんでくる。
 見事に現実~幻想世界への移り変わりとリンクされており、美しい描写である。
 島村にとって「雪国」は、物理的にも心理的にも日常から切り離された世界なのだろう。

●幻影を愛する男・島村
  駒子がだんだん(最初から?)島村に本気になっていくのに、島村の方は駒子をどうもしてやれない。
  駒子が可哀想…男に都合が良いお話…とも思うが、そもそも最初から、島村と駒子は結ばれえない。
  島村が東京で所帯を持っているということを差し置いてもである。
 なぜなら、おそらく島村は、「幻影」しか愛せない男なのだ。

 そのことを象徴しているエピソードがある。
  島村は雪国に来る前、日本舞踊の研究をしていた。
  それが高じて舞踊の興隆運動に誘われるも、途端にしり込みし、西洋舞踊に鞍替えしてしまったのだ。
  駒子が彼に向ける愛情も「徒労」だと思う島村。雪国を離れれば遠くなる駒子。
それらの言葉は(略)女が精いっぱいに生きているしるしで、彼は聞くのがつらかったほどだから忘れずにいるものだったが、こうして遠ざかっていく今の島村には、旅愁を添えるに過ぎないような、もう遠い声であった。p.84

 深くなる想いに、自ら歯止めをかけようとしているようにも見える。そして、彼はそんな自分を嘲笑している。

  駒子の激しい呼吸につれて現実というものが伝わってきた。それはなつかしい悔恨に似て、ただもう安らかになにかの復讐を待つ心のようであった。p.120
 自分の気持ちを冷静に観察する男と、だんだん想いが強くなっていく女。どこまでいっても並行にしかならない二人の関係に、別離が迫っていく。

●繭倉の火事~幻影世界の終焉
  最初に読んだときに「え?ここで終わりなの?」とポカーンとした物語のラスト。
  話が途中でぶちぎられて、突然終わった感があったが、今読み返すとこの大火のラストシーンによって、きちんと物語が終了していることがわかる。
  これまでにも、様々な自然風景によって島村と駒子の関係や心情が表象されているが、最後の繭蔵の大火も、物語のラストを飾るのにふさわしい象徴的なシーンであろう。
 映画を上映している繭倉に火事が起き、現場に向かう二人。野次馬と一緒に火事を見ていると、倉の二階から落ちてくる葉子。葉子を抱く駒子に駆け寄る島村の頭上には天の川が降っている。
 葉子が死んでいるのか気を失っているだけなのかは定かではないが、駒子の予言した通り、駒子を文字通り永遠に「雪国」の世界に縛り付ける存在となり、島村と駒子が一緒になれないことを暗示していると思う。

●「葉子」・・・幻想世界の象徴 
  葉子の言動は謎めいていて、彼女の思考を想像することは難しい。
  しかし、その存在そのものが島村の愛する幻影の国「雪国」の象徴なのだとすれば、彼女の支離滅裂な台詞や、ラストの繭蔵の大火での描写にも合点がいく。
 島村は列車の中で窓に映る葉子に「象徴の世界」p.10を感じている。彼女を表すキーワードとして、「鏡」「映画」が使われていることや、その声を「悲しいほど美しい声」と表するのも、いかにも幻影めいている。
  そして最後の繭蔵からの落下シーン。「人形じみた無抵抗さ」で垂直に落ちた彼女は「非現実的な世界の幻影のようだった。」p.171
 葉子の"死"のようなものは、大火の描写とともに島村の「幻影世界」がここに焼失したことを示すものであろう。
 死が感じられないほど現実感のない最期の彼女の様子は、もしかしたら最初からまぼろしだったのかもしれないとも思わされる。
 
 しかし、「葉子」とは結局何なのなだろうか。
 「葉子」を象徴する言葉は、「鏡」「映画」「象徴」「非現実」「刺すように美しい眼」「悲しいほど美しい声」などである。(「鏡」は駒子でも出てくるが)
  彼女は島村と会うたび「刺すような」視線を向ける。島村はその目に自分の駒子への気持ちを見透かされていると感じる。
  また彼女の弟や行雄に対する「真剣過ぎる素振」。
  「駒ちゃんを良くしてあげてください」と何度も頼む葉子。
  もしかしたら島村にとって彼女は、自分が失ってしまった真摯さの表象であり、そうした自分を見透かすもう一人の自分なのかもしれない。

2雪国


・引用文献:「雪国」川端康成著 新潮文庫(2006)

⑬-1「雪国」川端康成/1937年

「雪国」川端康成 1937年(昭和12)
~すれ違う男女の逢瀬のはて~



 「この指が覚えていたんだ」とか「滑らかな唇は、彼女の体の魅力そっくり」等々官能的な表現にばかり目が行きがちになるが、人物の心情と風景描写などの細かく緻密な文章が素晴らしく、読みごたえがある。
 一度では深いところまで理解できず何度も読んでしまう。

~あらすじ~
 東京に暮らす無為徒食の島村は、とある温泉町の「雪国」でのちに芸者となる駒子と出会う。
 数か月おきに彼女に会いに来る島村は駒子の真剣な生き方に惹かれていく。
 しかし同時に彼は、駒子の許嫁だったと噂される行男を愛する葉子にも惹かれて…


 わかりにくい小説だと思う。(現代小説になれてしまった私には...)
 表現に比喩や、言葉のぼやかしも多く、すべては理解できない。
 しかし、何回か読み返しているうちにわかってくることもあり、いろいろ考えたことがあるので、以下にまとめてみたい。

以下物語の核心部分を含みます。
①駒子の想い

 島村と駒子の気持ちのすれ違い(思い違い?)というのが、この小説の大きなテーマにもなっている。

「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけどそういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。」p.36
 島村と駒子はお互いに思い合っているが、気持ちの大きさ的には、初めから駒子>島村であろう。
 では、駒子は「どういう女」じゃないのか。

 「君はいい女だね。」p.146
 「それどういう意味?ねえ、なんのこと?」「言って頂戴。それで通ってらしたの?あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」
「くやしい、ああっ、くやしい。」p.147

 
 夜になるたびに「帰る」という駒子。浜松に居るという旦那は別にして、「島村」だから部屋まで来るのだ。
 「芸者だから」男の相手をする女だと云う風に思われたくないのだろう。
 「水商売の女」ということで、自分の真剣な気持ちが笑われることを恐れる駒子。
 その実、自身は肉体的に島村に惹かれている。
 「いい女だね。」この聞き違いによって、彼女は自分でそのことを露呈してしまう。
 そう考えると、幾度となく言う「悲しいわ」も意味深である。
 極め付けがこの言葉。男を拒めない悲しい女の性をよく表している。
 「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ。」p.36

 おそらく島村は、早いうちから彼女の肉体よりもその精神性に惹かれているのだろう。(多分…)
 駒子を象徴する言葉として何回も出てくる「清潔」と「徒労」と「透明」。
 彼女の最初の印象から「清潔」という言葉を連呼している。
 また、彼女を「透明な体」と表すことからも単に「水商売の女」というレッテルのみで駒子をみている感じは薄い。
 「水商売の女である自分」にこだわっているのは駒子の方なのだ。
 読書が好きで日記をつけ、人が散らかしたそばから片付けていくほどのきれい好きさ。
 譜面だけを頼りに三味線を真剣に稽古する生真面目さ。
 島村の言うところの「徒労」ともいえる行為を真剣に行う彼女に、彼は憧憬めいたものを感じ惹かれている。
  全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、雪のなるような静けさが身にしみて、それは女に惹きつけられたのであった。p.40


  一方で、駒子の島村に対する想いは次第にエスカレート。だんだん執着めいてきてちょっと怖い。

 一日に二度も異常な時間に暇を盗んできたのだと思うと、島村はただならぬものが感じられた。p.123

 撥入れだとか、羽織だとか、なにかしら持って来たものを、彼の部屋へ置いて帰りたがった。p.125


  「つらいから帰って頂戴。もう切る着物がないの。あんたのとこへ来る度に、お座敷着を変えたいけれど、すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」島村は言葉も出なかった。P.145,146

 思いつめていく駒子を目の当たりにした島村は、雪国を離れる決心をする。
 しかし、こうした島村のどうしようもない心境が細かく描かれていることで、彼がゲスだという感じはあんまりしない。

雪国

・引用文献:「雪国」川端康成著 新潮文庫(2006)

⑪「痴人の愛」 谷崎潤一郎/1924年

「痴人の愛」 谷崎潤一郎 1924年(大正13)
~自分が育てた女に振り回されていく男の苦悩と愉悦~


自身の肉体を武器に、男性を意のままに操る女性像を描いた(当時の)衝撃作。
ヒロイン・ナオミはモガを象徴する女性として有名になり、ナオミのように自分の好きなように生きる女性を指す「ナオミズム」という造語まで生まれた。
 しかし、この時代のモガ=貞操観念のない自由奔放な女だったのだろうか...
 勝手なイメージだが、モガ=自立した女、洋装、最先端のおしゃれ、職業婦人ではないのだろうか。
 この小説のせいで、断髪や洋装の女性たちが軽く見られるようになったとしたら、この時代の女性にとって非常に残念なことだったと思う...

~あらすじ~
 西洋に憧れる会社員の譲治は、行きつけのカフェーで働いている女給のナオミと知り合う。
  譲治は、彼女の西洋風で利発そうな顔をした所が気に入り、同棲を始める。
 やがてナオミは、譲治の願った通りに美しい肉体を持つ女へと成長していくが…


以下、物語の核心部分を含みます。
●欲望に忠実な女~欲望の三位一体~

 ナオミは、譲治が溺愛するせいで、次第にわがままで贅沢な女になっていく。
 
・物語終盤、ナオミの奴隷に成り下がり、もはや使い物にならなくなった譲治↓
ナオミ「これから何でも云うことを聴くか」
譲治「うん、聴く」
「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」
「出す」
「あたしに好きな事をさせるか、一々干渉なんかしないか」
「しない」(中略)
「きっとか」「きっと」p.368

…二人のやりとりがテンポ良く、面白い。

①食欲
舌が肥え、西洋料理、高価な和食を好む美食家と化す。
しかも彼女は料理を作らず、仕出し屋やてんや物、外食で済まそうとするため、食費が膨大になっていく。
譲治の元にくる月々の請求も大変なことに…

②服飾欲
当初は、お下がりの銘仙など来ていたのが、変わった素材で奇抜な衣装をあれもこれもと、どんどん誂える。
 ダンスに行くのにも、新しい着物を欲しがる。(もっともこれは彼がじゃんじゃん買い与えるからだろうが…)
 しかし、彼女は洗濯や家事は嫌いなので、脱いだ服は脱ぎ散らかし、部屋は荒れ放題。臭気まで漂うほどに…
最終的には、得体の知れない外人に洋服や宝石類まで買ってもらっている。(今でいう援交では…)
 この他、譲治は彼女に英語やダンスを習わせたりしている。
全ては彼女を立派なレディーにするためだったのだが…

③性欲
家事もやらず、大いに食べ、ファッションを楽しんだあげく、欲望の赴くままに、譲治以外の男たちとも付き合いまくるナオミ。
 これらの欲望は関連性があるので、全てにおいて、欲望の強い女ということなのだろう。

 しかし、この美食家で洒落好き、異性への欲望の強さ。生への貪欲さ。
 これではまさに女盤・谷崎潤一郎ではないか…。
 (彼が衣服を脱ぎ散らかしたり、片付け嫌いなのかは知らないが…)

●全体的な感想
話自体はとても面白く、続きが気になる展開となっているのだが、私はヒロイン・ナオミが好きではない。
 おそらく、今までに読んだ日本文学に登場する女性の中で、1番嫌かもしれない…
 
 ナオミは、巧妙に嘘をついたり頑固だったりするが、性格がすごく嫌な女という訳ではない。
 むしろ、インテリで自尊心が高い女のほうが、複雑で策略めいた嫌らしさがある場合もある。
 外見的にも魅力的だと思うし、彼女が肉体を武器にするのも全然かまわない。

 では何が嫌なのかと言えば、彼女の貞操観念が全くない所である。
 その無頓着さは、単なる男好きの域を通り越して、不潔な匂いすら醸し出している。

  仲間内で、口にすることもできないようなヒドイあだ名がついていたり、ダンスホールで出会った外国人男にまで、「あの女は一体どういう種類の女なんだ」と心配されるほどの放埒ぶり。
 多分多くの女性が本能的に嫌悪感を抱くタイプなのではないか。
 ほとんどの男性もこんな女は嫌だろう。
 そして、そんな女にひれ伏して頭が上がらない譲治のふがいなさも、なんか腹立たしい。
彼女が増長しすぎたのも、元はといえば、彼が甘やかしすぎたせいではないか。
私が彼ならナオミをさっさと家から追い出してやりたい。

 振り回されることに喜びを感じる譲二が滑稽で、その滑稽さを楽しむ小説なのだろうが、もう今度こそ彼はナオミをみかぎるだろうというところで、何度も許してしまうので、ちょっとイライラしてしまった。

 しかし、はたから見たらナオミもちょっと、可哀想だ。
 ナオミの男友達の大学生たちは、彼女をチヤホヤしてはいるが、女の性格や知性などを評価して対等に付き合っているというのではなく、あくまで処理のための道具みたいな扱い。
 いくらナオミが奔放だといっても、ちょっとひどすぎないか…?
 それを喜んで相手にしているナオミもナオミである。

 ナオミは決して頭が悪いのではないだろうけど(むしろさんざん譲治を欺く策略を立てるところは、かなりずる賢くもある)、欲望を充たしたいだけの男たちの本心がわからないとしたら、愚かだと思う。
 いや、わかっていて彼女も喜んで応じているのかもしれないが…

 そして、彼女は自分の若さと肉体を武器にして、楽に生きようとしすぎだろう。
 理性よりも欲望に忠実に、本能的に生きている。
 そんな彼女のために生きる譲治…
 譲治が彼女を見いだしたのだか、ナオミが自分を養ってくれる彼を本能的に嗅ぎつけたのだか、わからなくなってくる。
 ナオミは彼を永久に放しはしないだろう…
 まさに破れ鍋に綴じ蓋。お似合い夫婦である。

●谷崎好みの女性像
 小説だから誇張があるにしても、ナオミのモデルとなった女性も、実際に綺麗でスタイルもよく、映画に出るくらい派手な女性だったらしい。そして、とってもおしゃれでもある。
 まさかいくらなんでも、ナオミほどひどい女ってことは、ないと思うが…
 谷崎が年を経るに従って尻軽悪女タイプから高潔で清楚な女性を理想とするようになったのも、当然のことだろう。
他人事ながら、彼の目が覚めて良かったと安堵するくらいだ。(余計なお世話…)

 しかし、ナオミのような女に懲りた彼の性癖は、自分を下僕として高貴な女性と主従関係を結ぶという、よりいっそう変な方向へと向かってしまう。
彼のマゾヒズムもここにきてかなり極まった感がある…。
「春琴抄」など、ついにここまで…という感じ。
 しかし、この小説とは全然関係がないので、その話はまたの機会に…。

痴人


・引用文献:「痴人の愛」谷崎潤一郎 新潮文庫(1947)

⑩「藪の中」芥川龍之介/1922年

「藪の中」芥川龍之介 1922年(大正11)
~人間のエゴと矛盾をあぶり出す、永遠のミステリー~




 黒澤映画・羅生門の原作となった短編小説。
 「真相は藪の中」という言葉まで生まれたほど、有名な名作。
 全編、事件の関係者の供述による口述体で話を進める構成が、見事である。
 湊かなえの「告白」など、今では珍しくなくなったが、日本文学の小説でこの形体を用いたのは、もしかしたら芥川が一番初めなのではないだろうか…?

~あらすじ~
 山科近くの裏山で、一人の男の死体が見つかった。
 事件関係者である男の妻、容疑者である盗人、死人の男は三者三様、異なる供述をする…。



  だいたいこういうミステリーは、様々な人物の口述が進むに連れて、どんどん真相が明らかになっていくものだと思うが…
 この話は、結局最後まで読んでも、犯人が全くわからない。
 むしろ読んでいくにつれて、読者はさらに混乱していくことになる。

  それもそのはず、この話は、真相を究明することを目的としていない。
 芥川がこの小説で描きたかったのは、事件でも犯罪の真相でもなく、人間の傲慢なエゴイズムだったのだ。

  同じ事件や出来事に立ち合ったとしても、立場によって見方や感じ方が異なる。
 人間は、自分の都合の良いように、自らの記憶をねじ曲げてしまったり、自分を守ったりよく見せるために嘘をついたりする生き物である。
 芥川龍之介は、事件や犯人そのものよりも、人間の利己主義と自己矛盾こそが、最大のミステリーだと思っていたのだろう…。

 なので、この小説では、誰が正しい供述をしているのかや、真の犯人を追及すること事態、全くナンセンスといえる。

 しかし、私は真相が気になってしまうのだ…
 なので、ちょっとだけ個人的な推測を書きたい。
  もはや空想科学的ではあるが…


・以下、物語の核心を含む、勝手な分析になります。

●容疑者三人の供述
供述文では、皆少しずつ自分の記憶を塗り替えたり、話を脚色しているのだが、それらが、それぞれの性格や立場を表している。

・盗人、多襄丸
 わたしはその咄嗟の間に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。p.140

 策略を凝らして、夫婦を藪の中に連れ込んだ多襄丸。
 まんまと男の妻を自分のものにした彼は、彼女にそそのかされて、男と太刀打ちし、殺したと話す。
  彼の供述は、単に自分の策略や、太刀の腕を誇りたいだけのほらにみえる。
 二十三合目に胸を突いたと何回も念を押していることからも、それが伺える。

 しかし、案外真相に近い供述をしているのではないかとも思う。
 というのも、女の小刀で男を一突きで殺すのは難しかろうし、男が自刃した後、仰向けに倒れていたというのも、不自然なような気がする…

・男の妻、真砂
 しかし、其処に閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、唯わたしを蔑んだ、冷たい光だったではありませんか?p.143

 夫はわたしを蔑んだ儘、「殺せ。」と一言云ったのです。p.144

 彼女は盗人に手ごめにされた後、夫が自分を蔑み、憎しみまで抱いていると感じる。
 そして夫に心中を持ちかけて彼を殺したのは、自分だと言う。
 被害者という立場、羞恥、混乱がよく表現されている。
 自分は可哀想、同情してもらいたいという感情もよく伝わってくる。
 (私も真に彼女に同情する)

 しかし、夫と心中しようとして、なかなか自分だけは死ねなかったというのは、なんか怪しい…死ぬ気がなさそうな、ふてぶてしさもみえる。
(京マチ子の演じた真砂をみて、余計そう感じた。男を煽る、あざとい真砂像。黒澤は彼女をこのように解釈したのだろう…)

・殺された男、金沢の武弘
 妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇の中に、いま程おれも苦しみはしまい。p145.

  男は妻が信じられなくなり、彼の記憶の中では、妻が盗人に彼を殺せとまで言い出したことになっている。
 その後、全てに絶望した彼は、自ら小刀を刺したと言う。

 仮に盗人に殺されたとすると、彼にとっては不名誉なことだ。
 また妻から殺されたのだとしても、さらに外聞が悪い。
 侍として、自刃したとする方がまだ彼のプライドを保てる。
 よって、このような供述になっているのだと思う。
 なので、彼の供述も怪しい…

 しかし、自刃したとしたら、うつ伏で倒れているのではないか?
 また胸の小刀を引き抜いたのは誰なのか?等…
 数々の謎が残る。
 供述者により、使ったという凶器も異なっているし、凶器となった太刀、小刀などの物的証拠がないので、これ以上推測の使用がない。

真相は藪の中…。

●映画「羅生門」について
 学生の頃に小説を読んでから映画を見たが、真砂を演じた京マチ子と、殺された男の森雅之が良い。
 京マチ子は、ちょっと大げさな演技が良い。盗人に小刀を振るところ、彼女の気の強さが光る。
 男たちの決闘を煽る、わくわくした目。懺悔の場面のわざとらしさ。この真砂は本当は図太そうだ...
 森雅之の冷たい目も、とても良い。その後一時期、彼の出演作を探しては借りていた。
 今思い出したら、浮雲や挽歌といった小説も、彼の出演映画ということで知ったのだった。
 しかし、彼のインテリ紳士や策士的な役もいいのだが、浮雲、我が生涯のかがやける日などで見せるクズっぷりも見事。
まことに得難い俳優だったと思う...。
 主役の三船ももちろん、とても格好いいのだが、始終テンションが高かったように思った。
 原作の盗人は、もうちょっと落ち着いたイメージだ。

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・引用文献:「芥川龍之介作品集3」昭和出版社より「藪の中」

⑨-4「三四郎」夏目漱石/1908年


「三四郎」夏目漱石
(つづき)

⑤時代を見つめる漱石の視線
 この小説では、度々、与次郎に代表される、新時代の学生たちの文芸活動と主張や、広田先生の目から見た社会に関する分析が描かれている。
 これらは、三四郎と美禰子の恋と共に、物語の主要な柱となっており、本小説を教養小説たらしめている大きな要因となっていると思う。

 明治知識人の代表である広田先生は、社会を俯瞰的に見つつ、うがったセリフを放つ。
 <分析①明治の青春>でも述べたが、現代の日本社会を、西洋を知った広い視点から眺める広田先生=漱石の本音の代弁者なのだろう。

 彼によれば、彼の青年時代の日本人はもっと他人のために生きていたという。
 自己の幸せを追及するようになった新時代の人々が皆「露悪家」(漱石の造語)だというならば、現代の我々は一体どうなのだろう…

 さらに、他人の心を乱したいがために偽善をする、というような新しい人種が出てきたと言い、三四郎は美禰子を思い浮かべる。この辺の議論は、なんか小難しいが、ニュアンスとしては、理解できる。

 しかし、現代人の私から見れば、この時代の人々も十分、個よりも君や公、家を大事にしていると思う。
 というか、それらを離れて生きていくことは、当時かなり難しかったのではないか。

 この時代の日本人のほとんどが、家、所属する組織、ひいては君と国に仕える運命共同体だ。
 社会制度は欧米に学んだが、この集団主義的な行動原理は、日本独特だ。欧米の個人主義とはやはり違う。
  現在も個人主義が加速してきたとはいえ、私を含め多くの日本人の家や学校、会社などへの所属意識や忠誠心は、やはり他国の人たちのそれよりは、抜きんでているのではないか。日本社会の根本はそうそう変わらないと思う。
 明治と違うのは君主への忠誠心の強さくらいなものだろうか...

・文芸と社会

 「実際今日の文権は全く吾々青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで云えるだけ云わなけりゃ損じゃないか。(中略)
凡てが悉く揺いて、新気運に向かって行くんだから、取り残されちゃ大変だ。進んで自分からこの気運を拵え上げなくちゃ、生きてる甲斐はない。(中略)
 文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。」p.130
 
↑文芸誌に文章を寄稿している与次郎の主張。

 何も主張しないのは、意見を持たないのと同じこと。もっと言えば、存在しないのと同じこと。
 それでは、全く生きている意味がないではないか!
 ・・・といった感じの勢いでまくしたてる与次郎。
 何事も受け身の三四郎はこの言葉に対しても、なんだか鈍い反応だが、この生き生きとした弁は、この時代にあって(現代でも?)、まさにその通りだと思う。
 三四郎は東京での新しい生活を受け入れるので精いっぱいで、そんなことまで考える余裕がないのであろうが...

 現在も未来も、若い自分たちの手の中にある。激動の時代の中で、文芸の未来、ひいては日本の社会や未来を、自分たちでどんどん変えて行けるという思い。夢がある学生っていいな...

 時代が違っても、私を含め今の人々の胸にも響く言葉だと思う。
 今は便利になりすぎて、書物もメディアも発達しすぎ、もうこれ以上新しいことなんかないように思うが、自分で何かを発信したいという思いを持っている人たちは多いだろう。今は気軽にネットやSNSで自己発信できる時代であるから、その点では、好きに自己表現をしやすい。そこは現代ならではのよさである...

・文芸と国家
我々はこの自身と決心とを有するの点に於いて普通の人間とは異っている。文芸は技術でもない、事務でもない。より多くの人生の根本儀に触れた社会の原動力である。(中略)社会は烈しく揺きつつある。社会の産物たる文芸もまた揺きつつある。p.144
↑広田先生を大学教授にするために与次郎の友人が行った演説。

 文芸には大衆を動かす強い力がある。今はテレビやネットなどのメディアの方がより強い影響力を持つだろうが...

 明治という新しい国民国家の成立時期に、国民的作家たる文豪が多数生まれたのは、歴史的必然であろう。
 欧米諸国でも、国民国家の創成期に多くの国民作家や文学が誕生し、国民アイデンティティーの形成に大きな影響を及ぼした。
  人々は、同一言語で書かれた本を読み、内容を共有して国家の一員たる意識を強くしたのである。
 
 日本は、元々識字率も高かったため、文学は国民の意識に多大な影響を及ぼす重要なメディアだった。
文芸は、その影響力の強さから、人々を啓蒙し、近代化を成功させるための一助ともなった。
「学問のすゝめ」など、新時代の手引書が、国民の意識改革を促し、ベストセラーともなっている。

 しかし、国民を啓蒙する利を持つ一方で、自由に創作しうる文芸作品は、のちに軍部や政府にとっては、諸刃の剱となる…

 戦争の時代が近づくと、社会や、戦争などを批判した作品、いわゆるプロレタリア文学(それ以外でも、戦局にそぐわない華美なものなど...)が自由に発表出来なくなっていく。
 労働争議などを題材にしたものでも、弾圧の対象となったくらいだから、その攻撃は凄まじいものがある。
 軍と政府が文芸のパワーというものをかなり重く見ていた表れだろう。
 私は特定の政治思想を持たない者であるが、自由に創作できず、投獄された時代の作家たちに強い同情を寄せる。

 そういう意味で、「三四郎」に出てくる文芸に関する主張や演説文は、その後の日本社会の文芸と社会、または国家のありようについて、いろいろ考えさせられるのである。

三四郎4

・引用文献:「三四郎」夏目漱石 新潮文庫(1948)