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懐古的日本文学

主に近代以降(明治・大正・昭和)の日本文学、大衆小説の紹介や勝手な分析と感想、その他人文社会学系の本の紹介も。

2018年01月の記事

⑨-2「三四郎」夏目漱石/1908年

「三四郎」夏目漱石 1908年(明治8)

①明治の青春(続き)
・三四郎の性格
 三四郎はベーコンの二十三頁を開いた。他の本でも読めそうにはない。ましてベーコンなどは無論読む気にならない。けれども三四郎は恭しく二十三頁を開いて、万遍なく頁全体を見廻していた。三四郎は二十三頁の前で、一応昨夜の御浚をする気である。P.13

 三四郎は、口下手で、人と会う前に色々問答を想像したり、会った後でやり取りを後悔したりする、極めて日本人っぽい性格である。
 この時代の(今も?)標準的日本人学生という感じだろうか。
 頭がいいので思考が常に動いているが、口に出さず腹のなかで相手を色々評している。また、わからない分野や見識には黙っていて、知ったかぶりをして適当な相槌をうつ。それでいて人付き合いは好きなようだ。結構すぐ苦悩するが、それほど引きずらない。
 学生であるということを除けば、美禰子の相手は三四郎でもいいような気がする。誠実で信用できる。

② 新しい女性像・美禰子
「馬券で中るのは、人の心を中るよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引の附いている人の心さえ中てみようとはなさらない呑気な方だのに」p.186

 美禰子は、男性に付き従う旧時代の封建的な女ではない。自分の意思を持ち、男性と自由に意見し、時に惑わせる。まさにしなやかな奔馬という感じだ。彼女は、新時代の女性なのである。
 また、彼女は英語を勉強しており、海外の文学や思想に明るい。

 顔つきも、洋画家の原口が彼女にモデルに頼むように、近代的な美しさを持っている。
 三四郎も原口も、彼女の顔の中では、彼女の「目」に最も惹かれているのだが、それは単に造作が綺麗なだけではなく、彼女の目が、彼女自身を、つまり意志を強く写し出す目だからだろう。
 彼女の目は、時に鋭い視線を投げかけ、男を嘲笑し、苦悶の表情を浮かべる。封建時代の女とは違う自由な意志を持ってくるくると動き回る。

 知識人達は外国の小説に出てくる新しい女性像を彼女に重ね合わせる。こういう女を知ると、もう従来の従順な女に魅力は感じられないに違いない。
 しかし、このような女性に魅力を感じる男性が表れた、というのは時代がかなり進んだ感がある…。西洋かぶれているのだろうか。

 妖婦型と淑女型にわけるとしたら美禰子は明らかに前者だろう。とにかく注意を惹く女だということは確かだ。
周りの男達はよく彼女の噂話をしている。
 三四郎や野々宮に気があるそぶりを見せたあげく、ほかの男と結婚してしまった美禰子は、果たして悪女なのだろうか。二人は彼女にたぶらかされていただけだったのだろうか…。
 三四郎が、美禰子のセリフや行動に「愚弄」されたと感じる場面があるが、私はちょっと違うと思う。やや高慢な女ではあるとは思うが…
 ③で詳しくその理由を述べたい。


③ ストレイ・シープ(迷える羊)
 「ストレイ・シープ」は、美禰子が何度も三四郎に向かっていう有名なセリフ。「迷える羊」とは、三四郎だけではなく、美禰子自身の事でもある。むしろ三四郎より彼女の方が、「迷える羊」なのである。
 ちょっと見には、一見自由に生きている美禰子に、この言葉は当てはまらないような気がする。結婚だって、三四郎でも野々宮さんでも彼女なら誰とでも結婚できそうである。しかし、美禰子は自分の将来と結婚に関する苦悩と葛藤を抱えていた。

・明治の女性と結婚
 この彼女の葛藤を理解するには、この時代の背景を理解する必要がある。
この時代、通常、女性は10代後半で結婚する。女学校の在学中に結婚する女性も少なくない。(なんのための学校なのか…)
 そして、結婚せずに卒業した女性は「卒業面」と言われる。
いわく、美人は在学中に嫁に貰われていくため、卒業者=不美人の代名詞ということだ。
 美禰子は明らかに違うが…
 しかし、彼女は三四郎と同年代というから、22,3。すでにオールドミスのような年齢に達している。

・余談だがこの「卒業面」について書かれている井上章一氏の「美人論」がとても面白い。当時の女学校の、授業参観によって生徒たちを(有力者に)一般公開、結婚を斡旋するという驚きの結婚システムが詳しく書かれている。もちろん、美人から順に売れていく。まるで美術品オークションのよう…


 話を戻すと、ある一定以上の家の女性は、普通自ら生計を立てる手段を持たない。そのため結婚して夫に養ってもらう必要がある。結婚は、いわば女性が生活していくための手段なのである。
 当時の結婚は、一緒にいて楽しい、馬が合うとかよりも、家同士が釣り合うか、男性が経済的に女性や家族を養っていけるかが、重要であった。
 いくら新時代の女性でも、経済問題となると、よっぽど資産家の娘でない限り、社会的弱者である。職業婦人が定着するにはもうちょっと時代を下らなくてはならない。 
 両親を早くに失い、稼ぎ手である兄も近々結婚してしまう美禰子は、自身の結婚を実際の生活問題として捉えていた。

 ではなぜ、美禰子の周りの男性たちは彼女の結婚相手たり得なかったのか。
 美禰子が想いを寄せた相手について、個々に見ていきたい。


・美禰子と野々宮さん
 まず美禰子は、最初、三四郎の同郷出身の先輩・野々宮さんを好きなそぶりであった。
 しかし、野々宮さんは収入面で彼女の結婚相手としては、却下であろう。
 美禰子にみすぼらしい思いをさせてはいけない…彼女はそういう女ではない。豪華な着物を、惜し気もなく汚い地面に着けて座っているような女だ。

 それでも美禰子は、もし野々宮さんが真剣に彼女との将来を考え、決心してくれたとしたら、プロポーズを受けたのではないか。美禰子は、彼の研究態度を尊敬している。
 また、彼女も英語が得意で聡明なので、彼の稼ぎが十分でなくても、何か文を書いて家計の足しにすることができそうな気もする…
 私もこういう研究熱心で朴訥なタイプはよいと思う。
 しかし、こういう学者にはありがちなことだと思うが、女性のことよりも研究一徹の彼は、研究に集中するために下宿生活へと戻ってしまい、美禰子と結婚する機会を永久に失った。彼女も落胆したことだろう。そのあと、彼の前で三四郎にくっついて見せつけたり、「責任を逃れたがる人」など彼を非難する言葉を吐いていることからも、それがうかがえる。


・美禰子と三四郎
 個人的には、三四郎は、誠実だし、実家は田舎だが豪農っぽいので、美禰子と釣り合うと思うのだが…。
 
 では、なぜ三四郎ではだめだったのか。
 無論、三四郎がその時点で、経済力を持たない学生であるためだ。
 この時代、男女の結婚適齢期には大きな開きがある。
 オールドミス・美禰子には、三四郎が社会人になるまで待つ時間は、もう残されていないのだ…事態はかなり逼迫している。
 では美禰子の思わせぶりな態度は何だったのか。最初から結婚する気がないのなら、そんな態度を取らなければ良かったのではないかというのも、もっともである。

 ここで私は美禰子の弁護に入ろうと思う。
 美禰子が、自分のことで三四郎を悩ませて愉しんでいるというのは、少々違うと思う。多少三四郎の被害妄想も入っているのではないか。
 ちなみに漱石も、女中など周りの女達が自分の悪口を言っていると思い込んだり、バカにされたと思ってキレたりすることが、しょっちゅうであったという。この彼の神経症の話は、岩波明著の「文豪はみんな、うつ」に詳しい。
これらの漱石の被害妄想は、自身の対人関係の中での会話や態度に対する自信のなさからきているのだと考えられるが。

 そして、三四郎もやや美禰子を妖婦と見ている。確かに美禰子は本心が分かりづらい女である。
 一見、三四郎を弄んでいるようにもみえる。
 確かに人並み以上の美貌と才気を持っていれば、そのようになっても仕方ないかもしれない…。しかし、彼女は三四郎のことを何とも思っていないのに、ただ思わせぶりな態度を取っていたのではない。
 私も最初は「三四郎の事を結局なんとも思ってなかったんじゃないの、美禰子ヒドくない?」と思ったが、あとがき解説を読んで、なるほどと思った。
 これは、新潮文庫のあとがきの解説にもあるが、美禰子が絵のモデルとなったときに描かせたのは、三四郎と大学の池で初めて会ったときのポーズであった。
 彼女が描いてほしがったのは、彼女の独身時代の中で自分の最も輝ける日の一ページだったのである。
 それは三四郎と出会った日であった。
 これを大切な思い出として絵にして残すことで、彼女はその思いを封印して結婚を決意したのだろう。
 そこには深い思いがある。
 
 そうしてみると、彼女の三四郎への態度もセリフも、彼女なりに悩んでいるからこその行動と思われる。
 つまり、三四郎が自分の結婚相手となりうるか、見極めようとし、彼の反応を試していたのではないか。4.5年待つに値する相手かどうか、彼女なりに品定めしていたのではないか。
 結局、三四郎は彼女のおメガネにかなわず、美禰子はほかの人と結婚してしまうのだが…
 彼女はロマンティック・ラブ・イデオロギー(恋愛結婚)に憧れながらも、時代と自身の境遇がそれを許さないことを知っていた。

 でも、彼女は最後までかなり迷っていたと思う。迷っていたからこそ、三四郎と最後にあったときこのセリフを言ったのではないか。
 「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」p.280


 余談になるが、ほかの人物は、結婚相手としてどうなのか。
 例えば、三四郎の友人・与次郎は調子が良くて如才ないタイプなので、この中で一番給料を取りそうではある。文学への熱もありそうだが、器用そうなので月給取りになりながら、文筆をするというような二足のわらじを履きそうだ。
 彼には、行動力があり、人を動かす力がある。「広田先生を帝大の教授にする活動」に関する文芸や演説はすごい。まさに時代を背負っているという意識を持つ新時代の学生だ。
 反面、口が上手く相手に構わず生意気な口をきく、金を返さないなどの欠点がある。
 また、女性に関しては意外と冷淡で、「女は自分と同世代の男を相手にしない」だの、「美禰子を好きになっても仕方がない」と三四郎に忠告する彼はとても賢いと思う。
 商売女には自分の素性を知らせず、医大生だと騙し、別れるときには研究が忙しくなって遠くへ行くことになったと平気でうそをつくなど、なかなかの食わせ物だ。
 しかし、彼も現時点で学生という点で落第である。なかなか大物になりそうなので惜しい...。

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引用文献
・「三四郎」夏目漱石 新潮文庫(1948)
・「美人論」井上章一 朝日文庫(2017)
・「文豪はみんな、うつ」岩波明 幻冬舎新書(2010)

⑨-1「三四郎」夏目漱石/1908年

「三四郎」夏目漱石 1908年(明治41)
~新時代の学生・三四郎の青春と恋の苦悩~


 個人的に、明治の青春という感じがとても好きである。全体を通してどこか明るさが感じられ、現代と相通ずるものがある。同様の理由で「坂の上の雲」の前半部分も相当好きなのだが…
 主人公が、夢と希望に満ちて上京、国と時代が活気に満ちていて東京はその中心地。見るものすべてが真新しく圧倒される感じ、新しい出会い、友情…
この筋だけなら、明治を描いた小説としては、多々あるのだろう。私が漱石作品で「三四郎」を特に好きな理由は、多分にヒロイン・美禰子の存在によるところが大きい。美禰子が出てこなければ、本作の面白さは半減しただろうとさえ思う。

 また、漱石作品は主人公の心情描写や周りの情景描写が細やかで、描く性格がとても日本人的。かなり共感できる。主人公・三四郎は静かなたちなのであまり感情をあらわにしないが、心中では常に感情の嵐が吹き荒れているのが面白い。
 人物の動きも逐一細かく、三四郎と美禰子の出会いの場面など、文章を読むとスローモーションで脳内再生できるほどである。  理屈っぽい言い回しにいちいちユーモアを挟んでくるのは、もしかしたらイギリス文学や留学生活から覚えた技かもしれない。
 上手い文が多いので、引用したい文章が多すぎて困った。

~あらすじ~
 帝国大学に入学するために熊本から上京してきた三四郎は、東京で、同じく帝大生の与次郎や彼の下宿先の広田先生、同郷出身の野々宮さんなどに出会い、親しくなる。
 そんな中、野々宮さんの友人の妹・美禰子と出会い、惹かれていく三四郎だが、彼女の本心がわからず、心の中で苦悩するようになる...


①三四郎の東京生活と明治の青春
・新しい価値観
 三四郎は、上京してくるまでは、いくら書物で学問を学んでいるとはいえ、地元の熊本のみが彼の生活や思考を作る全世界であった。上京し、日本だけではなく世界を見据える目を持つ、新時代の知識人の価値観に触れる。

三四郎:「然しこれからは日本もだんだん発展するでしょう」
広田:「亡びるね」「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」
    「日本より頭の中の方が広いでしょう」「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
  この言葉を聞いたとき、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った。P.21


三四郎が「東京に来た」ということを強く感じる象徴的な場面だと思う。(まだ汽車の中だが…)大都市の西洋建築や文明的な設備、人口の多さよりも、広い思考や価値観を持つ人に出会ったときの新鮮な驚きの方が、彼により強く「東京」を感じさせた。

 ここで彼が自分を「卑怯」と評したのが、興味深い。九州は明治維新を成し遂げた志士たちを多数輩出した土地だ。
 このような風土で生まれ育った三四郎は、「日本の未来は明るい」と信じて疑わなかった。そのような周りの意見をうのみにして、 自分の頭で物事を考えようとしなかった自分や、当たり前を当たり前と信じて疑うことをしなかった自分を「卑怯」だと思ったのだろう。

  しかし、広田先生は先見の明がある。この「亡びるね」発言に、三四郎は、「どうも日本人じゃない様な気がする」とすら言っている。日露戦争に勝利した直後で「これで日本も一等国」と世間は沸き立っている時代である。
 この時点でこの先起こる泥沼戦争をどうして予測できようか。
 広田先生にこの発言をさせた漱石は、その留学経験から、広い視点で日本を見ることができていたのだろう。
 その前にも「どうも欧米人は美くしい。お互いは哀れだなあ」と日本を卑下する言葉が満載。
 漱石先生の「調子に乗るな、世界と肩を並べるにはまだ早い」という訓戒が込められているような気がする。

・新しい仲間
 三四郎は呆れ返った様な笑い方をして、四人の後を追掛けた。四人は細い横町を三分の二程の広い通りの方へ遠ざかった所である。この一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本当時のそれよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。P.112

 三四郎はある日、東京で親しくなった、美禰子や広田先生、野々宮さんと彼の妹のよし子と一緒に菊人形を見に行く。この一文は、三四郎が、単純に新しい仲間ができて喜んでいる文章ではない。(もちろん、喜んではいるのだが。)
…最後まで読むとそのことがわかってくる。

 彼は東京に来てから、自分を取り巻く世界を、第一から第三までに区分して考え始めた。
 第一は故郷・熊本を取り巻く世界。第二は広田先生、同郷出身の野々宮さんのような、世間の評判を気にせず、出世を求めず、自分の研究に勤しむ暮らしをしている人々。第三は、立身出世を果たし、美しい女性とともにある世界。
 まさしくこの瞬間、彼と新しい仲間は、第二第三の世界にいる。三四郎はまだ自分がどちらに属するのかわからない。それくらい、彼の未来はまだ遠い。

  いつも野々宮さんと美禰子が親しい様子なのが気になり、彼らの仲をずっと疑って、二人が結婚するのではないかと考えていた三四郎だが、これが全く見当違いなことがのちに判明する。
 この区分で分けるならば、野々宮さんは第二、美禰子は第三の世界の住人。

 美禰子は第三の世界の住人たる人と結婚してしまう。この小説では異なる世界の人々は決して交わらない。
 ましてや、この区分に区分けできない学生・三四郎には、美禰子の結婚相手として名乗りを上げる資格すらないということになる。
 
 このような切ない展開を踏まえて読むと、上記の一文は、在りし日の思い出の描写として美しいワンシーンである。

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・「三四郎」夏目漱石 新潮文庫

⑧「途上」谷崎潤一郎/1920年

「途上」谷崎潤一郎 1920年(大正9)
~徐々に暴かれていくある男の身の上~


 谷崎の探偵小説の傑作。彼自身が外国の探偵小説やミステリーに耽溺していただけあって、彼は実は探偵小説の名手でもあるのだ。しょっちゅうマゾっぽい小説ばかり書いているわけではない。
 第三者が主人公を論理立てて追い詰めていく内容に、読んでいてぞくぞくする。

~あらすじ~
 ある日の夕方、会社を出た湯河は見知らぬ中年紳士に声を掛けられる。
 その男は湯川に、奇妙な質問を次々と繰り出し始める…。


「偶然の中の必然と単純な必然とはやはり意味が違いますよ。」p.61
「あれを或る一個の人間の心理と結びつける時に、ここに新たなる問題が生じる、論理がもはや単純な論理ではなくなってくると云うことに、あなたはお気付きにならないでしょうか」p.62


 ●感想 と谷崎の小説について
 話の着地点がどこへ行くのか分からず、思わずページを捲る手が止まらない。
 このように、話がどんどん根底から覆されていく物語展開は、この小説に限らず、谷崎文学の特徴でもあるだろう。
 「痴人の愛」、「卍」、「細雪」などの長編でも、のり良く次々と物語が転換していき、読者をぐいぐい引き込んでいく。
彼の小説はくどいくらいに説明的であるし、あっと驚く展開を用意しているものも多い。
 話がどこに行くのか、物語の結末を想像しづらいのもよい。
 読者へのサービス精神を遺憾なく発揮していて、わかる人にだけわかればいい、解釈は読者にゆだねるというようなインテリ特有の高慢さが醸し出されている(と感じた…)漱石や鴎外、川端作品などと比べると、谷崎の小説は本当に親切なので、好きだ。
 彼の小説は、なんかここ理解できなかった…ということがない。比喩が難しくて解釈の余地があり、想像を掻き立てる文学も良いには良いのだが。それらは、他の人の意見を読んだり、解釈を巡る論文を調べたり、そういう面白さもあるのだけど。
 ただ、読者にわかりやすいという意味では、谷崎の小説は、大衆小説的なのだろう。
扱っている事柄も、現代設定のものは特にだが、自身のフェティシズムや女性、犯罪、それらの妄想、家庭の事など、私小説っぽいのが多い。

●谷崎自身の心理背景 
 この小説を書いたころ、谷崎はのちに最愛の妻となる松子夫人(当時人妻)を思う心から、現妻である千代子夫人を疎ましく思っていた。この10年後にかの妻譲渡事件が起こる...
 だからこの小説には、その胸中が如実に表れているといえよう。女性相手に、こんな想像を巡らせているなんて恐ろしい。
 夢中な女性には一途な愛を捧げひざまずく一方、興味を失った女性にはひどい冷酷さを見せる谷崎が怖い...。

谷崎途上

・引用文献「谷崎潤一郎犯罪小説集」谷崎潤一郎著 集英社文庫(2007)より「途上」

⑦「第七官界彷徨」尾崎翠/1931年

「第七官界彷徨」 尾崎翠 1931年(昭和6)
~文系少女と風変わりな理系兄達との日々~




 数篇の小説を発表した後、文学界から姿を消してしまった尾崎翠の代表作。
 まず、タイトルに惹かれてしまった。尾崎女史はタイトル付けが非常に上手く、モダン。最初に読んだのは、「アップルパイの午後」だった。

 …本作を一言で評するのは難しい。今まで読んだどんな近代文学とも違う、独特の雰囲気を放っている。明治生まれの尾崎女史だが、ハイカラでモダンで、理系ネタがいっぱい。小難しい会話にも、どこかユーモアがある。
  時代的に大学を出ている人でないと知り得ないような(当時の)最新科学知識が、色々詰め込まれている。
心理学、精神医学、植物研究、進化論などに始まり、第六感(この時代からそういう概念があったのかい…)、フロイトの夢診断のような会話まで出てくる。
 女史の幅広い分野への知識にただただ感服。
 主人公・町子も、第七官を定義付けしたりしょっちゅう色んな事を考察したり分析したりと、もはや研究者っぽい。
 実際に著者が、帝大で肥料の研究をしていた兄の元に下宿していたらしく、その体験が活かされているのだろう。

 まず、冒頭からして、おしゃれでふるってる。
「よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。」p.82

~あらすじ~
 上京してきた小野町子は、二人の兄と従兄の炊事係となった。長男の一助は心理病院に勤め、次男の二助は大学で植物の恋を研究している。従兄の三五郎は、音大浪人生。
皆変わり者だが、それぞれ勉強に励んでいる。町子は、人間の第七官にうったえるような詩を書くことを目標と定めたが…


●見どころ(以下物語の内容を含みます。)
①少女漫画的世界観

 本作はタイトルからしても空想的で、内容も昔の少女漫画っぽい。
なんか大島弓子の漫画のようだ。文章から乙女チックなイラストのイメージが湧いてくる。
この小説の、何がそう感じさせるのか。その要因を以下にまとめてみようと思う。

・優しい男性像
「どうも女の子が泣き出すと困るよ。チヨコレエト玉でも買ってきてみようか」p.102

  尾崎女史の書く男性はなんか現実的ではなく、理想的だ。
 皆変わってはいるが、優しくて、口調もきつくない。
 研究一徹の草食系男性だからかもしれない。
 「料理しろ、片付けをしろ」「女の子はすぐ泣く」とか文句も言うが、朝たびたび家族で合唱するところなんか、本当に楽しそうだ。
 また、兄達は町子のことを「女の子」と呼ぶ。当時の男性はあまり使わなそうな言葉だ。しかも妹に対して…
 実際に著者の兄たちも優しくて、可愛がられて育ったたのだろう。
 ここら辺は、実体験を元に男性の嫌な部分を書くことが多い、林芙美子や円地文子などとは対称的で読後がさわやか。

・紅一点のおさんどん
 優しい男達の中に、女の子1人で同居。(兄弟と従兄ではあるが…)しかも大事にしてもらっている。町子が泣いていると不器用に慰めてくれる。(町子はよく泣く...)このシチュエーションがもはや少女漫画。

・人生の深い苦悩よりも、恋患い
 町子の兄や従兄は、それぞれに難しい研究をしているが、浪人生の三五郎や心理病院に勤めている一助でさえ、あまり深刻になることがない。
 むしろ一助は恋患いに悩み、二助は失恋が発端となり、植物の研究を始めたりしている。三五郎は二人の女の子の間で揺れ動くし、町子も失恋したり新たな恋をしたりする。
 これらの描写のさまが、現実の痛みよりも、どこか夢の中のような出来事に感じさせる。みんな一時は切ながるが、淡々としている。

・愛憎や情欲の生々しさがない
 これは重要ポイントである。可愛い昔の少女漫画は、あくまで女の子の「夢」であるから、男性との接触も接吻まで、それ以上は忌避される。(近年のは違うと思うが…)
 町子と従兄の三五郎の関係は、まさに少女漫画のそれである。

  町子が三五郎に夢を打ち明けた時、彼は、町子を抱き天井の方に抱えあげる。(キャンディキャンディみたい…)
また、町子の寝る前には三五郎が彼女を抱きかかえながら頸に接吻。その後、彼は蒲団の上に町子をのせて部屋を出ていく。
 この二人の関係の清潔さは一体、少女漫画でなければなんなのだろう。


②兄たちの「女の子」への思い
  兄と三五郎の、町子や女の子に関する戸惑いや分析が面白い。

「女の子というものは、なかなか急に拒絶するものではないよ。拒絶するまでの月日をなるたけ長びかせるものだよ。あれはどういう心理なんだ、僕は諒解にくるしむ」p.144
 他の男を好いていて全然振り向いてくれなかった女の子を思い出しながら、二助がいうセリフ。
相手を傷つけまい(逆上させまい、かも)として、自然に相手が諦めるのを待つパターンか。
実は当に拒絶していたりするのだが、態度に出さず時を見計らっている。
女の子は計算高い…

「外見はむしろ可愛いくらいであるにも拘わらず、外見を知らない本人だけが不幸がったり恥ずかしがったりするんだ。女の子というものは、感情を無駄づかいして困る。」p.154
 髪を断髪にして恥ずかしがっている町子に、従兄の三五郎が言うセリフ。(ちなみに二人は好きあっている)
 これは女性が言われると喜ぶセリフだろう…
 髪を切って、変になって本人は気にしているんだけど、「全然変じゃないよ、むしろ可愛いよ、似合ってるよ」みたいな。

「僕は、このごろ、僕の心理のなかに、すこし変なものを感じかかっている。僕の心理はいま、二つに分かれかかっているんだ。女の子の頭に鏝をあててやると女の子の頸に接吻したくなるし、それからもう一人の女の子に坂で逢うと、わざと眼をそらしたくなるし、殊にこんな楽譜を見ると……」p.189
 三五郎は、町子を好いているが、となりに越してきた夜間女学生にも惹かれはじめる。二人の少女の間を揺れ動く彼のセリフ。戸惑いや町子に対する申し訳なさを巧みに表している。

③第七官とは何なのか?
 タイトルにもなっている、「第七官」は著者の造語である。読む前は、いわゆる「第六感」と同じような意味合いだろうと勝手に予想していた。しかし、作中において「第六感」は、一助の言葉によって次のように説明されている。いわく、「この「虫の知らせ」は普段は全く働かないのに、恋をした時のみ異様に働きだす」。
そのため、第六感と第七官は似てはいるが別物ということだ。

著者は、第六感を知った上で、自分の感覚を説明するのにもっとしっくりくる言葉を探して、自ら造語を造り上げてしまったのだろう。なんと先端的な女性なのだ…

・第七官の発見
 最初のほうで町子は、三五郎の奏でる調律の狂ったピアノの音と、二助の部屋から流れてくる研究用のこやしの臭いを同時に感じた時、この二つ以上の感覚が生み出す哀愁めいた感情こそが、「第七官」なのではないかと思う。
 けれど、それだけではまだ第七官とは呼べない。  
 この物語では、町子を含めたみんなそれぞれが、何らかの形で失恋する。
 物語全体を通してちょっとした哀愁や切なさが漂っているのもそのせいだろう。
 たぶん第七官とは、匂いや音楽や空気などが相まってそそる哀愁の上に、失恋の切なさを絡めた気持ちを表しているのではないか。
 実際町子も去ってしまった恋の相手を思った時、実感を伴ってこの心境に到達したのではないか。

「私が第七官の詩をかくにも失恋しなければならないであろう。」p.155
「私がノオトに書いたのは、われにくびまきをあたえし人は遥かなる旅路につけりというような哀感のこもった恋の詩であった。」p.215

 
 しかし、皆の恋の相手が、引っ越しなどの不可抗力によって途中で強制退場させられるのは、何でであろうか…
 切なさの中にもどこかのんきさがある詩情たっぷりのお話。
 現実世界に疲れたら第七官界へ。(私も行きたい……)


●雑談
本文の紹介と分析を書いた後、河出書房のムック本、「尾崎翠モダンガアルの偏愛」を読んでみたら、「尾崎翠の小説は極めて少女漫画的」というようなことが書いてあった…
得意気に分析してしまったが、既に多数の人が思っていることだっただろう。
優しい男性像、美しい夢みたいなのが詰め込まれているところが、少女漫画が好きな人には好まれるのかな。
 そしてこの本によると、吉野朔美の「少年は荒野をめざす」という漫画が尾崎翠っぽいのだそうだ。ぜひ読んでみたい。

<a href="http://kaikotekinihonbungak.blog.fc2.com/img/20180115223622b85.jpg/" target="_blank">第七官


・引用文献「ちくま日本文学004 尾崎翠」(2007)より「第七官界彷徨」  

⑥「挽歌」原田康子/1955年

「挽歌」 原田康子 1955年(昭和30)
〜屈折した危うい少女の、残酷で危険な遊戯の果て〜


 最初同人誌に掲載していたという本小説は、出版後ベストセラーとなり、出版翌年には久我美子主演で映画化されるという大ヒット作品となった。日本文学において不倫ものは数多くあれども、奸計を巡らせて周囲を振り回す主人公というのは、本作以前になかったのではないか。そしてその根底にある少女の不安と怯えを細かく描いている点でも(当時としては)珍しい。
それくらい主人公・怜子のキャラクターが鮮烈。
 映画を先に見ていたため、映画の筋をなぞるようだったが、細かな登場人物たちの心理、例えば不倫相手の妻に会いに行く怜子の心情などは小説を読まないと理解できない。
 映画で印象に残っていた台詞は、全部原作通りだった。久我美子の演技に脱帽。

~あらすじ~
 北海道釧路。兵藤怜子は、空想を好む少女。女学校時代に関節炎をこじらせたことにより、彼女の左手はほとんど動かない。
近所に住む桂木の飼い犬に噛まれたことをきっかけに彼と知り合い、彼と彼の家庭に惹かれる。
 やがて怜子は、偶然桂木の妻が不倫をしていることを知り、彼にそれを告げる。桂木は怜子の挑発的な態度に怒り、当てつけのように怜子をホテルに連れていく。そして、桂木を本気で愛しはじめていた怜子は、彼の出張中に桂木夫人に接近、親しくするようになるが…


・見どころ(以下物語の核心部分を含みます)
①屈折した怜子の性格
 この物語の最大の見所は、怜子の複雑な性格描写だろう。
彼女は自分の不自由な左手にコンプレックスを持っている。(そのためか父親に甘やかされ、仕事もせず、たまに近所の劇団のポスター描きをする以外はブラブラしている…)
だが、コンプレックスのためというよりも、おそらく元からの性格だろう。彼女はかなり屈折している。
まず、桂木の不倫を知り、わざと桂木に家庭のことを聞いたり、妻の不倫を仄めかす手紙を渡したりする。
 また、桂木夫人と不倫相手の古瀬の跡を追跡して、それを愉しむ。
自分の意地悪な好奇心に怯えながらも、それを止めることができないのだ。

 彼女は、自分が愛する人間に対してとても傲慢にふるまう。その関係が壊れる不安を抱えながら、一方で自ら破滅を望んでいるようにもみえる。
夫人に自分と桂木の関係を悟られた時、夫人の様子を観察する冷静さと喜び。…怖い。
自分に思いを寄せる幼なじみに全てを知られた時も、不敵な笑み…。
ーー怜子が愛している人物に対して、愛憎相反する感情を抱いていることを物語っている。そして時折、その意地悪さを激しくぶつけたり、甘えたりする。

②怜子と桂木
「わたしが欲しいのは、思いやりでもなく、静かな愛情でもなく、わたしが恋するときと同じように恋してくれる心なのだ……。」p.219

 怜子は、桂木に惹かれながら、妻に不倫をされている男を見つめるという意地悪な好奇心を持っている。
おそらく怜子は暖かい家庭というものに憧れていたのだろう。
 しかし、彼女は左手の欠陥や虚弱体質(もっともこれは少食で煙草ばかり呑み、昼夜逆転という彼女の生活習慣によるものだと思うが…)によって、普通に家庭の主婦になる自分を想像できない。
 最初から、それらは自分とはかけ離れた物であると思い込んでいて、だからこそ強く惹かれていると思う。人一倍誰かから愛されたいと願っているのだ。
 これはよくわかる…自分は家族とか子供とか責任背負うの無理だし、1人が楽だし…と思っていても、家族連れを見ると私には縁がないものなのだなと、時々無性に悲しくなる。
町で高齢者夫婦が労り合いながら歩いているのも、羨ましくて涙出そうになることがある…
 そういうやり場のない気持ちで怜子は、わざと夫妻を煽り、穏やかな家庭が崩れていく様を見て、溜飲を下げていたのだろうか…

 同時に、桂木の自分への思いは、ただの哀れみと責任感なのではないか?という不安が、彼女を絶えず脅かすようになる。
 彼女はしょっちゅうそんな事を考えているが、働いたり、ちょっとは家事を手伝ったりすればいいのに…多分彼女は暇すぎるのだろう…
その点では、私は彼女に魅力を感じない。
以前紹介した大宰の「女生徒」の主人公の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。

「わたしがムッシュを好きになったわけ教えてあげる」
「ムッシュの傷にさわりたかったのよ。傷があるってことはすごい魅力だわ」p.313,314

 彼女は愛している相手ほど残酷に傷付けてしまう。その根底には、強い不安がある。彼女には愛情の伝え方がわからなかったのではないか…?

③怜子と桂木夫人
 心の底に沈んでいる不安と怯えから、夫人へ近づいた怜子だったが、だんだん魅力的な夫人にも惹かれていき、自責の念に駆られる。
優しすぎる桂木夫人に罪悪感を秘めておけず、感情を制御できなかったのだろう…
 怜子は、残酷なやり方で夫人を追い詰め、その関係を自ら壊してしまう。
 それは、桂木夫人を失うことによって、夫人を愛していた自らをも痛めつけてしまう結果となった。

「おくさんをスワンにして、湖に浮かしたらどうだろう。優雅で気品があって憂わしげで、白鳥の女王になるわね。わたし見惚れたあげくに、掴まえたくなるわ、きっと」
「 逃げますわ」
「 逃げたら殺す。わたしハンターよ。白鳥を射つ名人。狙いは外れないわ」p.210


④夢を喰う女
「同情しないでね」(中略)
「電気洗濯機の話しもいやよ。そんな話嫌いなんだから。もうしちゃいけないわ。約束して」
「何の話しをする?」
「私獏よ」「夢を食べるの」p.149


 …しかしいくら獏だからといって、彼女のこの一連の振る舞いは許されるのだろうか…
怜子は自分の夢の中で生きている。いろいろな想像をして暮らし、自分の事しか考えていない彼女だからこそ、こんなひどいこともできるのだと感じる。
 終盤当たりに、自分がしたことから目を背けようと、連日強い睡眠剤を何十錠も飲む姿は、とても象徴的。
最終的に怜子自身がもう桂木とは会えないと決心したことや桂木夫人を失ったことにより、彼女自身大きな代償を払ったのだとも思えるが…。
 特に怜子を好きなみっちゃんは、さんざん振り回されていて可哀そうすぎる。
物語だと、全てを知っていて見守ってくれるこういうスペア的男性がよくいるんだよなあ。現実にはこうはいかない…
著者が女性なので、都合いいようになっているのだろうが…
しかし、どうしてこういうお嬢さん的な美少女(たぶん)は、年上に全然敬語をつかわないのだろうか。
 個人的に、この小説は気落ちしている時に読むと、ますます暗い気持ちになるので、要注意。

挽歌

・引用文献:「挽歌」原田康子 新潮文庫(1961) 398p