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懐古的日本文学

主に近代以降(明治・大正・昭和)の日本文学、大衆小説の紹介や勝手な分析と感想、その他人文社会学系の本の紹介も。

2018年02月の記事

⑩「藪の中」芥川龍之介/1922年

「藪の中」芥川龍之介 1922年(大正11)
~人間のエゴと矛盾をあぶり出す、永遠のミステリー~




 黒澤映画・羅生門の原作となった短編小説。
 「真相は藪の中」という言葉まで生まれたほど、有名な名作。
 全編、事件の関係者の供述による口述体で話を進める構成が、見事である。
 湊かなえの「告白」など、今では珍しくなくなったが、日本文学の小説でこの形体を用いたのは、もしかしたら芥川が一番初めなのではないだろうか…?

~あらすじ~
 山科近くの裏山で、一人の男の死体が見つかった。
 事件関係者である男の妻、容疑者である盗人、死人の男は三者三様、異なる供述をする…。



  だいたいこういうミステリーは、様々な人物の口述が進むに連れて、どんどん真相が明らかになっていくものだと思うが…
 この話は、結局最後まで読んでも、犯人が全くわからない。
 むしろ読んでいくにつれて、読者はさらに混乱していくことになる。

  それもそのはず、この話は、真相を究明することを目的としていない。
 芥川がこの小説で描きたかったのは、事件でも犯罪の真相でもなく、人間の傲慢なエゴイズムだったのだ。

  同じ事件や出来事に立ち合ったとしても、立場によって見方や感じ方が異なる。
 人間は、自分の都合の良いように、自らの記憶をねじ曲げてしまったり、自分を守ったりよく見せるために嘘をついたりする生き物である。
 芥川龍之介は、事件や犯人そのものよりも、人間の利己主義と自己矛盾こそが、最大のミステリーだと思っていたのだろう…。

 なので、この小説では、誰が正しい供述をしているのかや、真の犯人を追及すること事態、全くナンセンスといえる。

 しかし、私は真相が気になってしまうのだ…
 なので、ちょっとだけ個人的な推測を書きたい。
  もはや空想科学的ではあるが…


・以下、物語の核心を含む、勝手な分析になります。

●容疑者三人の供述
供述文では、皆少しずつ自分の記憶を塗り替えたり、話を脚色しているのだが、それらが、それぞれの性格や立場を表している。

・盗人、多襄丸
 わたしはその咄嗟の間に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。p.140

 策略を凝らして、夫婦を藪の中に連れ込んだ多襄丸。
 まんまと男の妻を自分のものにした彼は、彼女にそそのかされて、男と太刀打ちし、殺したと話す。
  彼の供述は、単に自分の策略や、太刀の腕を誇りたいだけのほらにみえる。
 二十三合目に胸を突いたと何回も念を押していることからも、それが伺える。

 しかし、案外真相に近い供述をしているのではないかとも思う。
 というのも、女の小刀で男を一突きで殺すのは難しかろうし、男が自刃した後、仰向けに倒れていたというのも、不自然なような気がする…

・男の妻、真砂
 しかし、其処に閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、唯わたしを蔑んだ、冷たい光だったではありませんか?p.143

 夫はわたしを蔑んだ儘、「殺せ。」と一言云ったのです。p.144

 彼女は盗人に手ごめにされた後、夫が自分を蔑み、憎しみまで抱いていると感じる。
 そして夫に心中を持ちかけて彼を殺したのは、自分だと言う。
 被害者という立場、羞恥、混乱がよく表現されている。
 自分は可哀想、同情してもらいたいという感情もよく伝わってくる。
 (私も真に彼女に同情する)

 しかし、夫と心中しようとして、なかなか自分だけは死ねなかったというのは、なんか怪しい…死ぬ気がなさそうな、ふてぶてしさもみえる。
(京マチ子の演じた真砂をみて、余計そう感じた。男を煽る、あざとい真砂像。黒澤は彼女をこのように解釈したのだろう…)

・殺された男、金沢の武弘
 妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇の中に、いま程おれも苦しみはしまい。p145.

  男は妻が信じられなくなり、彼の記憶の中では、妻が盗人に彼を殺せとまで言い出したことになっている。
 その後、全てに絶望した彼は、自ら小刀を刺したと言う。

 仮に盗人に殺されたとすると、彼にとっては不名誉なことだ。
 また妻から殺されたのだとしても、さらに外聞が悪い。
 侍として、自刃したとする方がまだ彼のプライドを保てる。
 よって、このような供述になっているのだと思う。
 なので、彼の供述も怪しい…

 しかし、自刃したとしたら、うつ伏で倒れているのではないか?
 また胸の小刀を引き抜いたのは誰なのか?等…
 数々の謎が残る。
 供述者により、使ったという凶器も異なっているし、凶器となった太刀、小刀などの物的証拠がないので、これ以上推測の使用がない。

真相は藪の中…。

●映画「羅生門」について
 学生の頃に小説を読んでから映画を見たが、真砂を演じた京マチ子と、殺された男の森雅之が良い。
 京マチ子は、ちょっと大げさな演技が良い。盗人に小刀を振るところ、彼女の気の強さが光る。
 男たちの決闘を煽る、わくわくした目。懺悔の場面のわざとらしさ。この真砂は本当は図太そうだ...
 森雅之の冷たい目も、とても良い。その後一時期、彼の出演作を探しては借りていた。
 今思い出したら、浮雲や挽歌といった小説も、彼の出演映画ということで知ったのだった。
 しかし、彼のインテリ紳士や策士的な役もいいのだが、浮雲、我が生涯のかがやける日などで見せるクズっぷりも見事。
まことに得難い俳優だったと思う...。
 主役の三船ももちろん、とても格好いいのだが、始終テンションが高かったように思った。
 原作の盗人は、もうちょっと落ち着いたイメージだ。

yabuno.jpg



・引用文献:「芥川龍之介作品集3」昭和出版社より「藪の中」

⑨-4「三四郎」夏目漱石/1908年


「三四郎」夏目漱石
(つづき)

⑤時代を見つめる漱石の視線
 この小説では、度々、与次郎に代表される、新時代の学生たちの文芸活動と主張や、広田先生の目から見た社会に関する分析が描かれている。
 これらは、三四郎と美禰子の恋と共に、物語の主要な柱となっており、本小説を教養小説たらしめている大きな要因となっていると思う。

 明治知識人の代表である広田先生は、社会を俯瞰的に見つつ、うがったセリフを放つ。
 <分析①明治の青春>でも述べたが、現代の日本社会を、西洋を知った広い視点から眺める広田先生=漱石の本音の代弁者なのだろう。

 彼によれば、彼の青年時代の日本人はもっと他人のために生きていたという。
 自己の幸せを追及するようになった新時代の人々が皆「露悪家」(漱石の造語)だというならば、現代の我々は一体どうなのだろう…

 さらに、他人の心を乱したいがために偽善をする、というような新しい人種が出てきたと言い、三四郎は美禰子を思い浮かべる。この辺の議論は、なんか小難しいが、ニュアンスとしては、理解できる。

 しかし、現代人の私から見れば、この時代の人々も十分、個よりも君や公、家を大事にしていると思う。
 というか、それらを離れて生きていくことは、当時かなり難しかったのではないか。

 この時代の日本人のほとんどが、家、所属する組織、ひいては君と国に仕える運命共同体だ。
 社会制度は欧米に学んだが、この集団主義的な行動原理は、日本独特だ。欧米の個人主義とはやはり違う。
  現在も個人主義が加速してきたとはいえ、私を含め多くの日本人の家や学校、会社などへの所属意識や忠誠心は、やはり他国の人たちのそれよりは、抜きんでているのではないか。日本社会の根本はそうそう変わらないと思う。
 明治と違うのは君主への忠誠心の強さくらいなものだろうか...

・文芸と社会

 「実際今日の文権は全く吾々青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで云えるだけ云わなけりゃ損じゃないか。(中略)
凡てが悉く揺いて、新気運に向かって行くんだから、取り残されちゃ大変だ。進んで自分からこの気運を拵え上げなくちゃ、生きてる甲斐はない。(中略)
 文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。」p.130
 
↑文芸誌に文章を寄稿している与次郎の主張。

 何も主張しないのは、意見を持たないのと同じこと。もっと言えば、存在しないのと同じこと。
 それでは、全く生きている意味がないではないか!
 ・・・といった感じの勢いでまくしたてる与次郎。
 何事も受け身の三四郎はこの言葉に対しても、なんだか鈍い反応だが、この生き生きとした弁は、この時代にあって(現代でも?)、まさにその通りだと思う。
 三四郎は東京での新しい生活を受け入れるので精いっぱいで、そんなことまで考える余裕がないのであろうが...

 現在も未来も、若い自分たちの手の中にある。激動の時代の中で、文芸の未来、ひいては日本の社会や未来を、自分たちでどんどん変えて行けるという思い。夢がある学生っていいな...

 時代が違っても、私を含め今の人々の胸にも響く言葉だと思う。
 今は便利になりすぎて、書物もメディアも発達しすぎ、もうこれ以上新しいことなんかないように思うが、自分で何かを発信したいという思いを持っている人たちは多いだろう。今は気軽にネットやSNSで自己発信できる時代であるから、その点では、好きに自己表現をしやすい。そこは現代ならではのよさである...

・文芸と国家
我々はこの自身と決心とを有するの点に於いて普通の人間とは異っている。文芸は技術でもない、事務でもない。より多くの人生の根本儀に触れた社会の原動力である。(中略)社会は烈しく揺きつつある。社会の産物たる文芸もまた揺きつつある。p.144
↑広田先生を大学教授にするために与次郎の友人が行った演説。

 文芸には大衆を動かす強い力がある。今はテレビやネットなどのメディアの方がより強い影響力を持つだろうが...

 明治という新しい国民国家の成立時期に、国民的作家たる文豪が多数生まれたのは、歴史的必然であろう。
 欧米諸国でも、国民国家の創成期に多くの国民作家や文学が誕生し、国民アイデンティティーの形成に大きな影響を及ぼした。
  人々は、同一言語で書かれた本を読み、内容を共有して国家の一員たる意識を強くしたのである。
 
 日本は、元々識字率も高かったため、文学は国民の意識に多大な影響を及ぼす重要なメディアだった。
文芸は、その影響力の強さから、人々を啓蒙し、近代化を成功させるための一助ともなった。
「学問のすゝめ」など、新時代の手引書が、国民の意識改革を促し、ベストセラーともなっている。

 しかし、国民を啓蒙する利を持つ一方で、自由に創作しうる文芸作品は、のちに軍部や政府にとっては、諸刃の剱となる…

 戦争の時代が近づくと、社会や、戦争などを批判した作品、いわゆるプロレタリア文学(それ以外でも、戦局にそぐわない華美なものなど...)が自由に発表出来なくなっていく。
 労働争議などを題材にしたものでも、弾圧の対象となったくらいだから、その攻撃は凄まじいものがある。
 軍と政府が文芸のパワーというものをかなり重く見ていた表れだろう。
 私は特定の政治思想を持たない者であるが、自由に創作できず、投獄された時代の作家たちに強い同情を寄せる。

 そういう意味で、「三四郎」に出てくる文芸に関する主張や演説文は、その後の日本社会の文芸と社会、または国家のありようについて、いろいろ考えさせられるのである。

三四郎4

・引用文献:「三四郎」夏目漱石 新潮文庫(1948)

⑨-3「三四郎」夏目漱石/1908年

「三四郎」夏目漱石

(つづき)


④三四郎と美禰子の切ないすれ違い  
 上京した青年が新しい仲間や女性と出会い、恋に落ちるという、ごくありふれた単純な筋なのに、こんなに面白く読ませるのは、ひとえに漱石の人間描写力の高さ故だろう。
  美禰子の表情や台詞一つとっても、全てに意味が込められている。
そして、さまざまな解釈を加えられるところも、この作品の魅力だと思う。

 無意識に心を通わせ合いながらも、結局すれ違っていく男女の想いというのに、とても惹き付けられる。
 想いを口に出すこともせず、相手の心を勝手に決めつけて、自己完結しているのが、もどかしくもある。

長期的な自分の幸せのみを追及する美禰子は、良く言えば自分に素直、悪く言えば、利己主義な女なのだろう。
 現代の目から見ても、男を煽る美禰子の手腕は、なんとも鮮やか。大したものである...
 そこで、わかりにくい美禰子の心情描写について、もう少し深く分析してみたい。
 
●様々な見方ができる作品なので、以下は勝手な私の解釈となります。

●美禰子の高等な駆け引き
・意味のない言葉
 最初の出会いの場面では、美禰子は、明らかに三四郎を意識しつつ、彼を惹き付けるような行動をとっている。
 これが、彼女のすごいところであろう。男が自分に対して好意を持っているのをいち早く感じ取りつつ、相手を煽る。
 普通の(明治の)女性ならば、照れるかはにかむか、そんなところだと思う...とても自己演出する余裕なんてないに違いない。

 三四郎池での場面。花の匂いを嗅ぎながら彼に近づいてくる、美禰子。
 椎の木の前で顔をあげ、わざわざ連れの看護婦に「これは何でしょう」と尋ねる。
 彼女が、まさか椎を知らない訳でもあるまい。
会話に意味はなく、肉声を発してさらに男の注意を引き付けるということが目的だったのだろう。
 その後、三四郎を見つめ、自分が嗅いでいた白い花を落としていく。
この一連の動作で、彼女は、自分という存在を三四郎に深く焼きつけている。

 また、展覧会に二人で行き、偶然野々宮さんに会った場面。彼女は三四郎に何事かささやく。
三四郎は何を言ったのか聞き取れず、後で聞き返す。すると...

美禰子「野々宮さん。ね、ね」
三四郎 「野々宮さん……」
美禰子 「解ったでしょう」
美禰子の意味は、大湊の崩れる如く一度に三四郎の胸を浸した。p.197  


 彼女は、野々宮さんへの当て付けに、三四郎に口を寄せただけであった。
 ここでも、この素振りを見せることが、彼女にとって重要なのであって、その言葉に意味はない。
 この行為で、三四郎と野々宮さん双方の感情を乱すことに成功している。

「だって」「私、何故だか、ああ為たかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
(中略)畢竟あなたの為にした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。p.198


 三四郎は嫉妬も込めて静かに怒るが、多分ここで美禰子の自分への気持ちを知る。


・愚弄
「この上には何か面白いものが有って?」p.151  
 三四郎が、一番初めに、自身が彼女に愚弄されていると感じたセリフ。
 運動会を抜け出てきた三四郎がいた場所に何かあるのかと聞く美禰子。
 三四郎が運動会そっちのけで、彼女を見ていたのを感じ取り、故意に意地悪している感じもある…
 個人的には、丘の上で自分たちが歩いてくるのを、ずっと見ていたの?という気持ちと、何か決定的な態度を取ってほしくて、促している言葉のように思えるが。
 余談だが、ここで「上がってみましょうか」「絶壁ね」などとさりげなくフォローするよし子が本当に良い子で、優しい。

 その後、与次郎が競馬ですったお金を三四郎に直接手渡したいという美禰子。
 そのことに対して、美禰子は自分に好意を抱いていると、一時は自惚れる三四郎。
 しかし、運動会での一件もあり、彼は彼女が彼に金を手渡すのは、自分を自惚れさせたり彼女のことで心を乱させたりするためだと感じてしまう。
 疑り深い三四郎…

・具合が悪くなる  
 美禰子は度々具合悪そうにしているが、これも結婚について思い悩む彼女の心を表しているのだろう。
 例えば、菊人形を観に行った時。美禰子は、気分が悪いと、皆から離れる。それは、ちょうど野々宮さんが下宿生活に戻るという話になりそうな時だった。菊人形でも野々宮さんを気にしているが、彼は一向に彼女を気に留めない。
 多少は野々宮さんの気を引く気もあって、三四郎とともに仲間から離れたのだろう。

 また、絵のモデルとなっている時、三四郎が訪ねてくると、彼女は顔色が優れない。
 彼女は、原口に近々兄が結婚するのだと言っており、自身も結婚を決心するも、まだ迷いがあったのだろう。
 三四郎は、この彼女の顔色の変化は、自分がまき起こしたのではないかとうぬぼれるが、あながち的を射ているかもしれない...

・好意
  一見分かりにくいが、 美禰子は、三四郎に迷える羊の絵はがきを送ったり、香水を選んでもらうなど、数々の好意のサインを出していたと思う。
 一番わかりやすいのは、彼女が三四郎にお金を貸すやりとりではないか。
 与次郎に言われたために金を借りに来た、と言った三四郎に「それでいらしったの」と聞き直す。
  美禰子が彼に期待していたのは、自分に会いたいから来たというそぶりなり、言葉だったのだろう。
 しかし、三四郎はあくまで金を借りに来たという硬い態度なので(内心は会いたくて来たのだが、それを伝えられず)、美禰子は失望する。
 そして、あんまりお金を借りたくなさそうな彼の態度に、彼女は冷淡になる。


 美禰子は、三四郎の気持ちを最初から知っていて、彼が自分への想いを口にするよう、言葉や態度で煽り、何度か、促してもいる。
 しかし、不器用な彼はなかなか本心を言えない。
 お金を返す時、三四郎はようやく決死の告白?「あなたに会いにいったんです」と伝えるが、時すでに遅し…美禰子は、「何をいまさら...」というようなため息で返す。もうこの時点で、婚約者が迎えに来ていて、三四郎を驚かせる。

 最後に会った時、三四郎が選んだ香水を染み込ませたハンカチを出してみせる美禰子…。微かなため息と落ち着いた表情。心が決まった彼女は、もう過去にかかずらってはいない。


…これらの心情を少しでも読みとれていたならば、三四郎はたいしたものだったと思うが…。
 彼は、一歩踏み出すのが遅すぎたのだ。
彼が素直に彼女の好意を受けとれず、始終疑ってかかっていたのには、冗談か本気なのかわからない彼女の態度にも問題がある...。
しかし、最後出来上がった美禰子の絵を見て、「ストレイ・シープ」とつぶやく三四郎は、最後の最後で、彼女の気持ちがわかったのではないか。自分と出会った時の姿の、絵の中の彼女。美禰子にとっても三四郎は特別な人だったと思う。
そうであってほしい...
初恋は実らないから美しいのだろう・・・。

三四郎・3


・引用文献:「三四郎」夏目漱石 新潮文庫(1948)