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懐古的日本文学

主に近代以降(明治・大正・昭和)の日本文学、大衆小説の紹介や勝手な分析と感想、その他人文社会学系の本の紹介も。

過去ログ

「2分間ミステリ」/ドナルド・J・ソボル

「2分間ミステリ」 ドナルド・J・ソボル

 このたびは西日本豪雨で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
 募金など、自身にできることで支援をしたいと思います。



 本作は、思わず本屋で手に取ってしまった文庫本。
「少年探偵ブラウン」シリーズなどで有名な著者の小話集。
1Pから2Pのさまざまな事件にまつわるストーリーが71話収録されている。

 物語の最後に、
Q:どうしてハレジアン博士は犯人が分かったのでしょう?
Q:どうして博士は詐欺だとわかったのでしょう?
などの問いがあり、謎を解くのが面白い。

 2分間どころか、30秒くらいで読めるのもあるので、集中力が続かない(?)夏でも読める。
 ストーリ的には、事件性のある刑事事件が多いので、怖がりの人は夜寝る前に読むのはあまりおすすめできない…
もっと詐欺とかほら話など、ライトな内容が多いとよいと思う。

 本の帯にも書いてあるが、一回ストーリーを読んで、クイズを見て、また読み直したりして話のおかしな部分を探したりするので、頭の体操になった。文章問題を解いたりするのが好きな人にもオススメできる。

・引用文献:「2分間ミステリ」 著ドナルド・J・ソボル  ハヤカワ文庫(2003年)

⑬-2「雪国」川端康成/1937年

「雪国」川端康成



②自然風景の描写による表象
 最初読んだときはあまり気づかなかったのだが、物語中、何度も自然描写と島村・駒子の心情が呼応させられている。

 二人が最初に出会ったときに見られる「もつれ合いながら飛んでいく蝶」p.28
追い詰められ、その姿を消されまいとあせっている「蜻蛉の群」=駒子
 松風にゆれる鈴の音=駒子
 最後、限られた時間しか会えない二人のこれまでの月日と、別れを予期させる「天の川」…

細かい描写も計算されていてすごいと改めて思った。

③非現実的な世界としての「雪国」

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」p.5

 あまりにも有名なこの冒頭から、すでに本小説の意図が示されている。
  冒頭の列車の中で島村は、窓に映っている葉子の姿をずっと見つめている。
 夕暮れ時は、窓の世界の景色と葉子の姿が混ざり合ってぼんやりとしているが、やがて夜光灯がつくようになると、葉子の姿(目)が強く浮かんでくる。
 見事に現実~幻想世界への移り変わりとリンクされており、美しい描写である。
 島村にとって「雪国」は、物理的にも心理的にも日常から切り離された世界なのだろう。

●幻影を愛する男・島村
  駒子がだんだん(最初から?)島村に本気になっていくのに、島村の方は駒子をどうもしてやれない。
  駒子が可哀想…男に都合が良いお話…とも思うが、そもそも最初から、島村と駒子は結ばれえない。
  島村が東京で所帯を持っているということを差し置いてもである。
 なぜなら、おそらく島村は、「幻影」しか愛せない男なのだ。

 そのことを象徴しているエピソードがある。
  島村は雪国に来る前、日本舞踊の研究をしていた。
  それが高じて舞踊の興隆運動に誘われるも、途端にしり込みし、西洋舞踊に鞍替えしてしまったのだ。
  駒子が彼に向ける愛情も「徒労」だと思う島村。雪国を離れれば遠くなる駒子。
それらの言葉は(略)女が精いっぱいに生きているしるしで、彼は聞くのがつらかったほどだから忘れずにいるものだったが、こうして遠ざかっていく今の島村には、旅愁を添えるに過ぎないような、もう遠い声であった。p.84

 深くなる想いに、自ら歯止めをかけようとしているようにも見える。そして、彼はそんな自分を嘲笑している。

  駒子の激しい呼吸につれて現実というものが伝わってきた。それはなつかしい悔恨に似て、ただもう安らかになにかの復讐を待つ心のようであった。p.120
 自分の気持ちを冷静に観察する男と、だんだん想いが強くなっていく女。どこまでいっても並行にしかならない二人の関係に、別離が迫っていく。

●繭倉の火事~幻影世界の終焉
  最初に読んだときに「え?ここで終わりなの?」とポカーンとした物語のラスト。
  話が途中でぶちぎられて、突然終わった感があったが、今読み返すとこの大火のラストシーンによって、きちんと物語が終了していることがわかる。
  これまでにも、様々な自然風景によって島村と駒子の関係や心情が表象されているが、最後の繭蔵の大火も、物語のラストを飾るのにふさわしい象徴的なシーンであろう。
 映画を上映している繭倉に火事が起き、現場に向かう二人。野次馬と一緒に火事を見ていると、倉の二階から落ちてくる葉子。葉子を抱く駒子に駆け寄る島村の頭上には天の川が降っている。
 葉子が死んでいるのか気を失っているだけなのかは定かではないが、駒子の予言した通り、駒子を文字通り永遠に「雪国」の世界に縛り付ける存在となり、島村と駒子が一緒になれないことを暗示していると思う。

●「葉子」・・・幻想世界の象徴 
  葉子の言動は謎めいていて、彼女の思考を想像することは難しい。
  しかし、その存在そのものが島村の愛する幻影の国「雪国」の象徴なのだとすれば、彼女の支離滅裂な台詞や、ラストの繭蔵の大火での描写にも合点がいく。
 島村は列車の中で窓に映る葉子に「象徴の世界」p.10を感じている。彼女を表すキーワードとして、「鏡」「映画」が使われていることや、その声を「悲しいほど美しい声」と表するのも、いかにも幻影めいている。
  そして最後の繭蔵からの落下シーン。「人形じみた無抵抗さ」で垂直に落ちた彼女は「非現実的な世界の幻影のようだった。」p.171
 葉子の"死"のようなものは、大火の描写とともに島村の「幻影世界」がここに焼失したことを示すものであろう。
 死が感じられないほど現実感のない最期の彼女の様子は、もしかしたら最初からまぼろしだったのかもしれないとも思わされる。
 
 しかし、「葉子」とは結局何なのなだろうか。
 「葉子」を象徴する言葉は、「鏡」「映画」「象徴」「非現実」「刺すように美しい眼」「悲しいほど美しい声」などである。(「鏡」は駒子でも出てくるが)
  彼女は島村と会うたび「刺すような」視線を向ける。島村はその目に自分の駒子への気持ちを見透かされていると感じる。
  また彼女の弟や行雄に対する「真剣過ぎる素振」。
  「駒ちゃんを良くしてあげてください」と何度も頼む葉子。
  もしかしたら島村にとって彼女は、自分が失ってしまった真摯さの表象であり、そうした自分を見透かすもう一人の自分なのかもしれない。

2雪国


・引用文献:「雪国」川端康成著 新潮文庫(2006)

⑬-1「雪国」川端康成/1937年

「雪国」川端康成 1937年(昭和12)
~すれ違う男女の逢瀬のはて~



 「この指が覚えていたんだ」とか「滑らかな唇は、彼女の体の魅力そっくり」等々官能的な表現にばかり目が行きがちになるが、人物の心情と風景描写などの細かく緻密な文章が素晴らしく、読みごたえがある。
 一度では深いところまで理解できず何度も読んでしまう。

~あらすじ~
 東京に暮らす無為徒食の島村は、とある温泉町の「雪国」でのちに芸者となる駒子と出会う。
 数か月おきに彼女に会いに来る島村は駒子の真剣な生き方に惹かれていく。
 しかし同時に彼は、駒子の許嫁だったと噂される行男を愛する葉子にも惹かれて…


 わかりにくい小説だと思う。(現代小説になれてしまった私には...)
 表現に比喩や、言葉のぼやかしも多く、すべては理解できない。
 しかし、何回か読み返しているうちにわかってくることもあり、いろいろ考えたことがあるので、以下にまとめてみたい。

以下物語の核心部分を含みます。
①駒子の想い

 島村と駒子の気持ちのすれ違い(思い違い?)というのが、この小説の大きなテーマにもなっている。

「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけどそういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。」p.36
 島村と駒子はお互いに思い合っているが、気持ちの大きさ的には、初めから駒子>島村であろう。
 では、駒子は「どういう女」じゃないのか。

 「君はいい女だね。」p.146
 「それどういう意味?ねえ、なんのこと?」「言って頂戴。それで通ってらしたの?あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」
「くやしい、ああっ、くやしい。」p.147

 
 夜になるたびに「帰る」という駒子。浜松に居るという旦那は別にして、「島村」だから部屋まで来るのだ。
 「芸者だから」男の相手をする女だと云う風に思われたくないのだろう。
 「水商売の女」ということで、自分の真剣な気持ちが笑われることを恐れる駒子。
 その実、自身は肉体的に島村に惹かれている。
 「いい女だね。」この聞き違いによって、彼女は自分でそのことを露呈してしまう。
 そう考えると、幾度となく言う「悲しいわ」も意味深である。
 極め付けがこの言葉。男を拒めない悲しい女の性をよく表している。
 「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ。」p.36

 おそらく島村は、早いうちから彼女の肉体よりもその精神性に惹かれているのだろう。(多分…)
 駒子を象徴する言葉として何回も出てくる「清潔」と「徒労」と「透明」。
 彼女の最初の印象から「清潔」という言葉を連呼している。
 また、彼女を「透明な体」と表すことからも単に「水商売の女」というレッテルのみで駒子をみている感じは薄い。
 「水商売の女である自分」にこだわっているのは駒子の方なのだ。
 読書が好きで日記をつけ、人が散らかしたそばから片付けていくほどのきれい好きさ。
 譜面だけを頼りに三味線を真剣に稽古する生真面目さ。
 島村の言うところの「徒労」ともいえる行為を真剣に行う彼女に、彼は憧憬めいたものを感じ惹かれている。
  全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、雪のなるような静けさが身にしみて、それは女に惹きつけられたのであった。p.40


  一方で、駒子の島村に対する想いは次第にエスカレート。だんだん執着めいてきてちょっと怖い。

 一日に二度も異常な時間に暇を盗んできたのだと思うと、島村はただならぬものが感じられた。p.123

 撥入れだとか、羽織だとか、なにかしら持って来たものを、彼の部屋へ置いて帰りたがった。p.125


  「つらいから帰って頂戴。もう切る着物がないの。あんたのとこへ来る度に、お座敷着を変えたいけれど、すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」島村は言葉も出なかった。P.145,146

 思いつめていく駒子を目の当たりにした島村は、雪国を離れる決心をする。
 しかし、こうした島村のどうしようもない心境が細かく描かれていることで、彼がゲスだという感じはあんまりしない。

雪国

・引用文献:「雪国」川端康成著 新潮文庫(2006)

⑫「私の東京地図」佐多稲子/1949年

「私の東京地図」佐多稲子 1949年(昭和24)
~東京の街と共に歩んできた「私」の人生地図~

 プロレタリア作家として、労働者の立場から社会を描いてきた彼女の自伝的小説。
 終戦の翌年から連作として発表し始めた本作は、社会批判や主義主張があまり強くなく(ちょっとはあるが)、一人の市井の女性の物語として、気負わず読むことができる。

~あらすじ~
 終戦後、焼け野原の東京に立った「私」は、自分と東京の街の思い出を回想し始める…。


①東京と移り変わるまち
 人々の暮らしや仕事や生活習慣などは、当たり前のこととして常にそこにあるので、わざわざそれを意識して生活している人はあまり多くないと思う。
 移りゆく街や人々の様子など、意識して観察し、日記などに残さない限り、長く記憶に留めることは不可能だろう。

 特に東京はとても変化が激しい街である。そのスピードたるや、世界でも指折りのレベルだろう。
 彼女が生きた時代、東京は何度も災禍に見舞われた。関東大震災や火事、最終的には空襲によって、原型を留めないほどになってしまった。
 そんな時代の東京の風俗を、著者は精巧な筆致で描き出している。
 過去のことをこんなに細かく描いていることに、まず驚く。
 かなり若い頃より、作家としての観察眼を持っていたのだろう。細かく日記をつけていたのだろうか。はたまた記憶力が人並み外れて良いのだろうか…

 都会人の人つきあいのいい反面、気弱に引っ込みがちなのは、必要以上に人の気を兼ねるわずらわしさからに逃げようとする傲慢さでもあったのだ。P.165

 仕事のため、途中からは思想運動のため住む場所を転々とする「私」。
 放浪する定めにある「私」は、人づきあいに淡泊だが、昔の事だから、生活の中では下宿の家主や近所の人々、同僚、活動の仲間などと否応なしに関わりあわなければならない。
 この小説全体からは、忙しい中でも日々の暮らしにかかわる街や景色、また短い間でもかかわった人々への強い愛着が感じ取れる。
 いくら日記を付けていたとはいえ、街や風景、お店の立地の細かさに加えて、人の表情や服装、会話などを映し出す丹念な書きようがすごい。


②「私」の強い自尊心
 自負心というものは、その字の通り、自らだけのものにすぎないのだと気がつく。外側から見られた私には、私自身が私に頼んでいるように、特殊などということはありようがない。P.77 

 「私は他人とは少し違う。でも、ほかの人から見れば、その他大勢のうちの一人にすぎない」
 このような思いは、多くの人が持っているものではないかと思う。
 自分は特別であるという自負心。そして、その特別さがわからないひと(特に尊敬している人、著名人)への失望。
 小説家やアーティストはその感情が一層強いのだろう。
 「私」の中には、ハイカラと粋を併せ持った独特の好み、文壇への憧れがある。
 「私」は、一風変わったインテリ趣味や嗜好によって、仕事場のほかの人とは違う自分自身を感じている。

 「立派な雑誌ですのね」私は、本郷や田端に流れる一脈の清風に、頬を撫でられるおもいをした。小石川を含めて本郷や田端というところには、いつからか私の感情の中に郷愁に似たおもいをそそるものがあるのだった。P.14

 そして、この自負心=自己愛でもある。
 「地図」というだけあって、この小説は風景描写、そこに住む人々の様子が丹念に描かれているのだが、気にして読むと、まちの風景の中に映し出されている「私」の姿や、仕事場での「私」の様子もよく描いている。容姿や衣装、髪型の説明は言わずもがな。これは、私は他人とは違うということを表すのに、細かな説明の必要性があるのだろうが…

●風景の中の「私」
 私が印象深かったのは、風景の中の「私」を描くという表現方法である。

 「灯に照らし出された私のうしろ姿の、女店員の風俗にしては帯の結び方が低い、ということなどは誰も気が付かない」p.86
 「私はつるつると足を滑らせる。(略)すれ違う人には女の愛らしい声が聞こえたに違いない」p.129、「私は(略)電車から降りてくる。鏝をあてた耳かくしに化粧をした顔が白い」p.162

 景色の中で、私がどう映ったのかを客観的に何度も描いており、まちの景色とともにその瞬間、瞬間の自分を切りとるというふうである。それやこれや、またそのほかのいろいろな描写から、「私」はかなり自分がいとおしいのだろうと感じた…

●ファッションと自負心
 外から見れば何でもない女店員のひとり、自分にとっては、自分なりの色合を持った娘である。P.86

 「私」は、みんなと同じような格好でいなければならない仕事場においても、衣装や髪形に自分なりのこだわりをもっている。
 料亭ではみんな黒衿をかけるのに、「私」だけは、えんじ色の襟をかける。
 丸善では、ほかの女定員のように胸高に帯を締めず、わざと帯の結び目を低くし、それまで束髪が当たり前だった髪から、こてをあてたウェーブ髪にする。

 これらは、仕事着に自分だけのひそかな楽しみを作ろうとする、単にファッション好きな女性らしい意識ともとれるが、おそらく画一的に型にはめようとする組織(会社)や社会に対するささやかな抵抗でもあるのだろう。
 この「抵抗、反発」というのは、「私」の感情に深く根付いていて、のちの思想活動にもつながっていく。

 私には権力に反発する強情なものがその底にいつもくすぶっている。p.190

 文壇へのあこがれと労働によって支えられた「私」の巨大な自負心は、やがて、同人作家兼思想活動家の男との同棲、文筆業や思想活動につながっていく。

東京地図


・引用文献:「私の東京地図」佐多稲子 講談社文芸文庫(2011)

⑪「痴人の愛」 谷崎潤一郎/1924年

「痴人の愛」 谷崎潤一郎 1924年(大正13)
~自分が育てた女に振り回されていく男の苦悩と愉悦~


自身の肉体を武器に、男性を意のままに操る女性像を描いた(当時の)衝撃作。
ヒロイン・ナオミはモガを象徴する女性として有名になり、ナオミのように自分の好きなように生きる女性を指す「ナオミズム」という造語まで生まれた。
 しかし、この時代のモガ=貞操観念のない自由奔放な女だったのだろうか...
 勝手なイメージだが、モガ=自立した女、洋装、最先端のおしゃれ、職業婦人ではないのだろうか。
 この小説のせいで、断髪や洋装の女性たちが軽く見られるようになったとしたら、この時代の女性にとって非常に残念なことだったと思う...

~あらすじ~
 西洋に憧れる会社員の譲治は、行きつけのカフェーで働いている女給のナオミと知り合う。
  譲治は、彼女の西洋風で利発そうな顔をした所が気に入り、同棲を始める。
 やがてナオミは、譲治の願った通りに美しい肉体を持つ女へと成長していくが…


以下、物語の核心部分を含みます。
●欲望に忠実な女~欲望の三位一体~

 ナオミは、譲治が溺愛するせいで、次第にわがままで贅沢な女になっていく。
 
・物語終盤、ナオミの奴隷に成り下がり、もはや使い物にならなくなった譲治↓
ナオミ「これから何でも云うことを聴くか」
譲治「うん、聴く」
「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」
「出す」
「あたしに好きな事をさせるか、一々干渉なんかしないか」
「しない」(中略)
「きっとか」「きっと」p.368

…二人のやりとりがテンポ良く、面白い。

①食欲
舌が肥え、西洋料理、高価な和食を好む美食家と化す。
しかも彼女は料理を作らず、仕出し屋やてんや物、外食で済まそうとするため、食費が膨大になっていく。
譲治の元にくる月々の請求も大変なことに…

②服飾欲
当初は、お下がりの銘仙など来ていたのが、変わった素材で奇抜な衣装をあれもこれもと、どんどん誂える。
 ダンスに行くのにも、新しい着物を欲しがる。(もっともこれは彼がじゃんじゃん買い与えるからだろうが…)
 しかし、彼女は洗濯や家事は嫌いなので、脱いだ服は脱ぎ散らかし、部屋は荒れ放題。臭気まで漂うほどに…
最終的には、得体の知れない外人に洋服や宝石類まで買ってもらっている。(今でいう援交では…)
 この他、譲治は彼女に英語やダンスを習わせたりしている。
全ては彼女を立派なレディーにするためだったのだが…

③性欲
家事もやらず、大いに食べ、ファッションを楽しんだあげく、欲望の赴くままに、譲治以外の男たちとも付き合いまくるナオミ。
 これらの欲望は関連性があるので、全てにおいて、欲望の強い女ということなのだろう。

 しかし、この美食家で洒落好き、異性への欲望の強さ。生への貪欲さ。
 これではまさに女盤・谷崎潤一郎ではないか…。
 (彼が衣服を脱ぎ散らかしたり、片付け嫌いなのかは知らないが…)

●全体的な感想
話自体はとても面白く、続きが気になる展開となっているのだが、私はヒロイン・ナオミが好きではない。
 おそらく、今までに読んだ日本文学に登場する女性の中で、1番嫌かもしれない…
 
 ナオミは、巧妙に嘘をついたり頑固だったりするが、性格がすごく嫌な女という訳ではない。
 むしろ、インテリで自尊心が高い女のほうが、複雑で策略めいた嫌らしさがある場合もある。
 外見的にも魅力的だと思うし、彼女が肉体を武器にするのも全然かまわない。

 では何が嫌なのかと言えば、彼女の貞操観念が全くない所である。
 その無頓着さは、単なる男好きの域を通り越して、不潔な匂いすら醸し出している。

  仲間内で、口にすることもできないようなヒドイあだ名がついていたり、ダンスホールで出会った外国人男にまで、「あの女は一体どういう種類の女なんだ」と心配されるほどの放埒ぶり。
 多分多くの女性が本能的に嫌悪感を抱くタイプなのではないか。
 ほとんどの男性もこんな女は嫌だろう。
 そして、そんな女にひれ伏して頭が上がらない譲治のふがいなさも、なんか腹立たしい。
彼女が増長しすぎたのも、元はといえば、彼が甘やかしすぎたせいではないか。
私が彼ならナオミをさっさと家から追い出してやりたい。

 振り回されることに喜びを感じる譲二が滑稽で、その滑稽さを楽しむ小説なのだろうが、もう今度こそ彼はナオミをみかぎるだろうというところで、何度も許してしまうので、ちょっとイライラしてしまった。

 しかし、はたから見たらナオミもちょっと、可哀想だ。
 ナオミの男友達の大学生たちは、彼女をチヤホヤしてはいるが、女の性格や知性などを評価して対等に付き合っているというのではなく、あくまで処理のための道具みたいな扱い。
 いくらナオミが奔放だといっても、ちょっとひどすぎないか…?
 それを喜んで相手にしているナオミもナオミである。

 ナオミは決して頭が悪いのではないだろうけど(むしろさんざん譲治を欺く策略を立てるところは、かなりずる賢くもある)、欲望を充たしたいだけの男たちの本心がわからないとしたら、愚かだと思う。
 いや、わかっていて彼女も喜んで応じているのかもしれないが…

 そして、彼女は自分の若さと肉体を武器にして、楽に生きようとしすぎだろう。
 理性よりも欲望に忠実に、本能的に生きている。
 そんな彼女のために生きる譲治…
 譲治が彼女を見いだしたのだか、ナオミが自分を養ってくれる彼を本能的に嗅ぎつけたのだか、わからなくなってくる。
 ナオミは彼を永久に放しはしないだろう…
 まさに破れ鍋に綴じ蓋。お似合い夫婦である。

●谷崎好みの女性像
 小説だから誇張があるにしても、ナオミのモデルとなった女性も、実際に綺麗でスタイルもよく、映画に出るくらい派手な女性だったらしい。そして、とってもおしゃれでもある。
 まさかいくらなんでも、ナオミほどひどい女ってことは、ないと思うが…
 谷崎が年を経るに従って尻軽悪女タイプから高潔で清楚な女性を理想とするようになったのも、当然のことだろう。
他人事ながら、彼の目が覚めて良かったと安堵するくらいだ。(余計なお世話…)

 しかし、ナオミのような女に懲りた彼の性癖は、自分を下僕として高貴な女性と主従関係を結ぶという、よりいっそう変な方向へと向かってしまう。
彼のマゾヒズムもここにきてかなり極まった感がある…。
「春琴抄」など、ついにここまで…という感じ。
 しかし、この小説とは全然関係がないので、その話はまたの機会に…。

痴人


・引用文献:「痴人の愛」谷崎潤一郎 新潮文庫(1947)