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懐古的日本文学

主に近代以降(明治・大正・昭和)の日本文学、大衆小説の紹介や勝手な分析と感想、その他人文社会学系の本の紹介も。

過去ログ

⑩「藪の中」芥川龍之介/1922年

「藪の中」芥川龍之介 1922年(大正11)
~人間のエゴと矛盾をあぶり出す、永遠のミステリー~




 黒澤映画・羅生門の原作となった短編小説。
 「真相は藪の中」という言葉まで生まれたほど、有名な名作。
 全編、事件の関係者の供述による口述体で話を進める構成が、見事である。
 湊かなえの「告白」など、今では珍しくなくなったが、日本文学の小説でこの形体を用いたのは、もしかしたら芥川が一番初めなのではないだろうか…?

~あらすじ~
 山科近くの裏山で、一人の男の死体が見つかった。
 事件関係者である男の妻、容疑者である盗人、死人の男は三者三様、異なる供述をする…。



  だいたいこういうミステリーは、様々な人物の口述が進むに連れて、どんどん真相が明らかになっていくものだと思うが…
 この話は、結局最後まで読んでも、犯人が全くわからない。
 むしろ読んでいくにつれて、読者はさらに混乱していくことになる。

  それもそのはず、この話は、真相を究明することを目的としていない。
 芥川がこの小説で描きたかったのは、事件でも犯罪の真相でもなく、人間の傲慢なエゴイズムだったのだ。

  同じ事件や出来事に立ち合ったとしても、立場によって見方や感じ方が異なる。
 人間は、自分の都合の良いように、自らの記憶をねじ曲げてしまったり、自分を守ったりよく見せるために嘘をついたりする生き物である。
 芥川龍之介は、事件や犯人そのものよりも、人間の利己主義と自己矛盾こそが、最大のミステリーだと思っていたのだろう…。

 なので、この小説では、誰が正しい供述をしているのかや、真の犯人を追及すること事態、全くナンセンスといえる。

 しかし、私は真相が気になってしまうのだ…
 なので、ちょっとだけ個人的な推測を書きたい。
  もはや空想科学的ではあるが…


・以下、物語の核心を含む、勝手な分析になります。

●容疑者三人の供述
供述文では、皆少しずつ自分の記憶を塗り替えたり、話を脚色しているのだが、それらが、それぞれの性格や立場を表している。

・盗人、多襄丸
 わたしはその咄嗟の間に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。p.140

 策略を凝らして、夫婦を藪の中に連れ込んだ多襄丸。
 まんまと男の妻を自分のものにした彼は、彼女にそそのかされて、男と太刀打ちし、殺したと話す。
  彼の供述は、単に自分の策略や、太刀の腕を誇りたいだけのほらにみえる。
 二十三合目に胸を突いたと何回も念を押していることからも、それが伺える。

 しかし、案外真相に近い供述をしているのではないかとも思う。
 というのも、女の小刀で男を一突きで殺すのは難しかろうし、男が自刃した後、仰向けに倒れていたというのも、不自然なような気がする…

・男の妻、真砂
 しかし、其処に閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、唯わたしを蔑んだ、冷たい光だったではありませんか?p.143

 夫はわたしを蔑んだ儘、「殺せ。」と一言云ったのです。p.144

 彼女は盗人に手ごめにされた後、夫が自分を蔑み、憎しみまで抱いていると感じる。
 そして夫に心中を持ちかけて彼を殺したのは、自分だと言う。
 被害者という立場、羞恥、混乱がよく表現されている。
 自分は可哀想、同情してもらいたいという感情もよく伝わってくる。
 (私も真に彼女に同情する)

 しかし、夫と心中しようとして、なかなか自分だけは死ねなかったというのは、なんか怪しい…死ぬ気がなさそうな、ふてぶてしさもみえる。
(京マチ子の演じた真砂をみて、余計そう感じた。男を煽る、あざとい真砂像。黒澤は彼女をこのように解釈したのだろう…)

・殺された男、金沢の武弘
 妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇の中に、いま程おれも苦しみはしまい。p145.

  男は妻が信じられなくなり、彼の記憶の中では、妻が盗人に彼を殺せとまで言い出したことになっている。
 その後、全てに絶望した彼は、自ら小刀を刺したと言う。

 仮に盗人に殺されたとすると、彼にとっては不名誉なことだ。
 また妻から殺されたのだとしても、さらに外聞が悪い。
 侍として、自刃したとする方がまだ彼のプライドを保てる。
 よって、このような供述になっているのだと思う。
 なので、彼の供述も怪しい…

 しかし、自刃したとしたら、うつ伏で倒れているのではないか?
 また胸の小刀を引き抜いたのは誰なのか?等…
 数々の謎が残る。
 供述者により、使ったという凶器も異なっているし、凶器となった太刀、小刀などの物的証拠がないので、これ以上推測の使用がない。

真相は藪の中…。

●映画「羅生門」について
 学生の頃に小説を読んでから映画を見たが、真砂を演じた京マチ子と、殺された男の森雅之が良い。
 京マチ子は、ちょっと大げさな演技が良い。盗人に小刀を振るところ、彼女の気の強さが光る。
 男たちの決闘を煽る、わくわくした目。懺悔の場面のわざとらしさ。この真砂は本当は図太そうだ...
 森雅之の冷たい目も、とても良い。その後一時期、彼の出演作を探しては借りていた。
 今思い出したら、浮雲や挽歌といった小説も、彼の出演映画ということで知ったのだった。
 しかし、彼のインテリ紳士や策士的な役もいいのだが、浮雲、我が生涯のかがやける日などで見せるクズっぷりも見事。
まことに得難い俳優だったと思う...。
 主役の三船ももちろん、とても格好いいのだが、始終テンションが高かったように思った。
 原作の盗人は、もうちょっと落ち着いたイメージだ。

yabuno.jpg



・引用文献:「芥川龍之介作品集3」昭和出版社より「藪の中」

⑨-4「三四郎」夏目漱石/1908年


「三四郎」夏目漱石
(つづき)

⑤時代を見つめる漱石の視線
 この小説では、度々、与次郎に代表される、新時代の学生たちの文芸活動と主張や、広田先生の目から見た社会に関する分析が描かれている。
 これらは、三四郎と美禰子の恋と共に、物語の主要な柱となっており、本小説を教養小説たらしめている大きな要因となっていると思う。

 明治知識人の代表である広田先生は、社会を俯瞰的に見つつ、うがったセリフを放つ。
 <分析①明治の青春>でも述べたが、現代の日本社会を、西洋を知った広い視点から眺める広田先生=漱石の本音の代弁者なのだろう。

 彼によれば、彼の青年時代の日本人はもっと他人のために生きていたという。
 自己の幸せを追及するようになった新時代の人々が皆「露悪家」(漱石の造語)だというならば、現代の我々は一体どうなのだろう…

 さらに、他人の心を乱したいがために偽善をする、というような新しい人種が出てきたと言い、三四郎は美禰子を思い浮かべる。この辺の議論は、なんか小難しいが、ニュアンスとしては、理解できる。

 しかし、現代人の私から見れば、この時代の人々も十分、個よりも君や公、家を大事にしていると思う。
 というか、それらを離れて生きていくことは、当時かなり難しかったのではないか。

 この時代の日本人のほとんどが、家、所属する組織、ひいては君と国に仕える運命共同体だ。
 社会制度は欧米に学んだが、この集団主義的な行動原理は、日本独特だ。欧米の個人主義とはやはり違う。
  現在も個人主義が加速してきたとはいえ、私を含め多くの日本人の家や学校、会社などへの所属意識や忠誠心は、やはり他国の人たちのそれよりは、抜きんでているのではないか。日本社会の根本はそうそう変わらないと思う。
 明治と違うのは君主への忠誠心の強さくらいなものだろうか...

・文芸と社会

 「実際今日の文権は全く吾々青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで云えるだけ云わなけりゃ損じゃないか。(中略)
凡てが悉く揺いて、新気運に向かって行くんだから、取り残されちゃ大変だ。進んで自分からこの気運を拵え上げなくちゃ、生きてる甲斐はない。(中略)
 文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。」p.130
 
↑文芸誌に文章を寄稿している与次郎の主張。

 何も主張しないのは、意見を持たないのと同じこと。もっと言えば、存在しないのと同じこと。
 それでは、全く生きている意味がないではないか!
 ・・・といった感じの勢いでまくしたてる与次郎。
 何事も受け身の三四郎はこの言葉に対しても、なんだか鈍い反応だが、この生き生きとした弁は、この時代にあって(現代でも?)、まさにその通りだと思う。
 三四郎は東京での新しい生活を受け入れるので精いっぱいで、そんなことまで考える余裕がないのであろうが...

 現在も未来も、若い自分たちの手の中にある。激動の時代の中で、文芸の未来、ひいては日本の社会や未来を、自分たちでどんどん変えて行けるという思い。夢がある学生っていいな...

 時代が違っても、私を含め今の人々の胸にも響く言葉だと思う。
 今は便利になりすぎて、書物もメディアも発達しすぎ、もうこれ以上新しいことなんかないように思うが、自分で何かを発信したいという思いを持っている人たちは多いだろう。今は気軽にネットやSNSで自己発信できる時代であるから、その点では、好きに自己表現をしやすい。そこは現代ならではのよさである...

・文芸と国家
我々はこの自身と決心とを有するの点に於いて普通の人間とは異っている。文芸は技術でもない、事務でもない。より多くの人生の根本儀に触れた社会の原動力である。(中略)社会は烈しく揺きつつある。社会の産物たる文芸もまた揺きつつある。p.144
↑広田先生を大学教授にするために与次郎の友人が行った演説。

 文芸には大衆を動かす強い力がある。今はテレビやネットなどのメディアの方がより強い影響力を持つだろうが...

 明治という新しい国民国家の成立時期に、国民的作家たる文豪が多数生まれたのは、歴史的必然であろう。
 欧米諸国でも、国民国家の創成期に多くの国民作家や文学が誕生し、国民アイデンティティーの形成に大きな影響を及ぼした。
  人々は、同一言語で書かれた本を読み、内容を共有して国家の一員たる意識を強くしたのである。
 
 日本は、元々識字率も高かったため、文学は国民の意識に多大な影響を及ぼす重要なメディアだった。
文芸は、その影響力の強さから、人々を啓蒙し、近代化を成功させるための一助ともなった。
「学問のすゝめ」など、新時代の手引書が、国民の意識改革を促し、ベストセラーともなっている。

 しかし、国民を啓蒙する利を持つ一方で、自由に創作しうる文芸作品は、のちに軍部や政府にとっては、諸刃の剱となる…

 戦争の時代が近づくと、社会や、戦争などを批判した作品、いわゆるプロレタリア文学(それ以外でも、戦局にそぐわない華美なものなど...)が自由に発表出来なくなっていく。
 労働争議などを題材にしたものでも、弾圧の対象となったくらいだから、その攻撃は凄まじいものがある。
 軍と政府が文芸のパワーというものをかなり重く見ていた表れだろう。
 私は特定の政治思想を持たない者であるが、自由に創作できず、投獄された時代の作家たちに強い同情を寄せる。

 そういう意味で、「三四郎」に出てくる文芸に関する主張や演説文は、その後の日本社会の文芸と社会、または国家のありようについて、いろいろ考えさせられるのである。

三四郎4

・引用文献:「三四郎」夏目漱石 新潮文庫(1948)

⑨-3「三四郎」夏目漱石/1908年

「三四郎」夏目漱石

(つづき)


④三四郎と美禰子の切ないすれ違い  
 上京した青年が新しい仲間や女性と出会い、恋に落ちるという、ごくありふれた単純な筋なのに、こんなに面白く読ませるのは、ひとえに漱石の人間描写力の高さ故だろう。
  美禰子の表情や台詞一つとっても、全てに意味が込められている。
そして、さまざまな解釈を加えられるところも、この作品の魅力だと思う。

 無意識に心を通わせ合いながらも、結局すれ違っていく男女の想いというのに、とても惹き付けられる。
 想いを口に出すこともせず、相手の心を勝手に決めつけて、自己完結しているのが、もどかしくもある。

長期的な自分の幸せのみを追及する美禰子は、良く言えば自分に素直、悪く言えば、利己主義な女なのだろう。
 現代の目から見ても、男を煽る美禰子の手腕は、なんとも鮮やか。大したものである...
 そこで、わかりにくい美禰子の心情描写について、もう少し深く分析してみたい。
 
●様々な見方ができる作品なので、以下は勝手な私の解釈となります。

●美禰子の高等な駆け引き
・意味のない言葉
 最初の出会いの場面では、美禰子は、明らかに三四郎を意識しつつ、彼を惹き付けるような行動をとっている。
 これが、彼女のすごいところであろう。男が自分に対して好意を持っているのをいち早く感じ取りつつ、相手を煽る。
 普通の(明治の)女性ならば、照れるかはにかむか、そんなところだと思う...とても自己演出する余裕なんてないに違いない。

 三四郎池での場面。花の匂いを嗅ぎながら彼に近づいてくる、美禰子。
 椎の木の前で顔をあげ、わざわざ連れの看護婦に「これは何でしょう」と尋ねる。
 彼女が、まさか椎を知らない訳でもあるまい。
会話に意味はなく、肉声を発してさらに男の注意を引き付けるということが目的だったのだろう。
 その後、三四郎を見つめ、自分が嗅いでいた白い花を落としていく。
この一連の動作で、彼女は、自分という存在を三四郎に深く焼きつけている。

 また、展覧会に二人で行き、偶然野々宮さんに会った場面。彼女は三四郎に何事かささやく。
三四郎は何を言ったのか聞き取れず、後で聞き返す。すると...

美禰子「野々宮さん。ね、ね」
三四郎 「野々宮さん……」
美禰子 「解ったでしょう」
美禰子の意味は、大湊の崩れる如く一度に三四郎の胸を浸した。p.197  


 彼女は、野々宮さんへの当て付けに、三四郎に口を寄せただけであった。
 ここでも、この素振りを見せることが、彼女にとって重要なのであって、その言葉に意味はない。
 この行為で、三四郎と野々宮さん双方の感情を乱すことに成功している。

「だって」「私、何故だか、ああ為たかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
(中略)畢竟あなたの為にした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。p.198


 三四郎は嫉妬も込めて静かに怒るが、多分ここで美禰子の自分への気持ちを知る。


・愚弄
「この上には何か面白いものが有って?」p.151  
 三四郎が、一番初めに、自身が彼女に愚弄されていると感じたセリフ。
 運動会を抜け出てきた三四郎がいた場所に何かあるのかと聞く美禰子。
 三四郎が運動会そっちのけで、彼女を見ていたのを感じ取り、故意に意地悪している感じもある…
 個人的には、丘の上で自分たちが歩いてくるのを、ずっと見ていたの?という気持ちと、何か決定的な態度を取ってほしくて、促している言葉のように思えるが。
 余談だが、ここで「上がってみましょうか」「絶壁ね」などとさりげなくフォローするよし子が本当に良い子で、優しい。

 その後、与次郎が競馬ですったお金を三四郎に直接手渡したいという美禰子。
 そのことに対して、美禰子は自分に好意を抱いていると、一時は自惚れる三四郎。
 しかし、運動会での一件もあり、彼は彼女が彼に金を手渡すのは、自分を自惚れさせたり彼女のことで心を乱させたりするためだと感じてしまう。
 疑り深い三四郎…

・具合が悪くなる  
 美禰子は度々具合悪そうにしているが、これも結婚について思い悩む彼女の心を表しているのだろう。
 例えば、菊人形を観に行った時。美禰子は、気分が悪いと、皆から離れる。それは、ちょうど野々宮さんが下宿生活に戻るという話になりそうな時だった。菊人形でも野々宮さんを気にしているが、彼は一向に彼女を気に留めない。
 多少は野々宮さんの気を引く気もあって、三四郎とともに仲間から離れたのだろう。

 また、絵のモデルとなっている時、三四郎が訪ねてくると、彼女は顔色が優れない。
 彼女は、原口に近々兄が結婚するのだと言っており、自身も結婚を決心するも、まだ迷いがあったのだろう。
 三四郎は、この彼女の顔色の変化は、自分がまき起こしたのではないかとうぬぼれるが、あながち的を射ているかもしれない...

・好意
  一見分かりにくいが、 美禰子は、三四郎に迷える羊の絵はがきを送ったり、香水を選んでもらうなど、数々の好意のサインを出していたと思う。
 一番わかりやすいのは、彼女が三四郎にお金を貸すやりとりではないか。
 与次郎に言われたために金を借りに来た、と言った三四郎に「それでいらしったの」と聞き直す。
  美禰子が彼に期待していたのは、自分に会いたいから来たというそぶりなり、言葉だったのだろう。
 しかし、三四郎はあくまで金を借りに来たという硬い態度なので(内心は会いたくて来たのだが、それを伝えられず)、美禰子は失望する。
 そして、あんまりお金を借りたくなさそうな彼の態度に、彼女は冷淡になる。


 美禰子は、三四郎の気持ちを最初から知っていて、彼が自分への想いを口にするよう、言葉や態度で煽り、何度か、促してもいる。
 しかし、不器用な彼はなかなか本心を言えない。
 お金を返す時、三四郎はようやく決死の告白?「あなたに会いにいったんです」と伝えるが、時すでに遅し…美禰子は、「何をいまさら...」というようなため息で返す。もうこの時点で、婚約者が迎えに来ていて、三四郎を驚かせる。

 最後に会った時、三四郎が選んだ香水を染み込ませたハンカチを出してみせる美禰子…。微かなため息と落ち着いた表情。心が決まった彼女は、もう過去にかかずらってはいない。


…これらの心情を少しでも読みとれていたならば、三四郎はたいしたものだったと思うが…。
 彼は、一歩踏み出すのが遅すぎたのだ。
彼が素直に彼女の好意を受けとれず、始終疑ってかかっていたのには、冗談か本気なのかわからない彼女の態度にも問題がある...。
しかし、最後出来上がった美禰子の絵を見て、「ストレイ・シープ」とつぶやく三四郎は、最後の最後で、彼女の気持ちがわかったのではないか。自分と出会った時の姿の、絵の中の彼女。美禰子にとっても三四郎は特別な人だったと思う。
そうであってほしい...
初恋は実らないから美しいのだろう・・・。

三四郎・3


・引用文献:「三四郎」夏目漱石 新潮文庫(1948)

⑨-2「三四郎」夏目漱石/1908年

「三四郎」夏目漱石 1908年(明治8)

①明治の青春(続き)
・三四郎の性格
 三四郎はベーコンの二十三頁を開いた。他の本でも読めそうにはない。ましてベーコンなどは無論読む気にならない。けれども三四郎は恭しく二十三頁を開いて、万遍なく頁全体を見廻していた。三四郎は二十三頁の前で、一応昨夜の御浚をする気である。P.13

 三四郎は、口下手で、人と会う前に色々問答を想像したり、会った後でやり取りを後悔したりする、極めて日本人っぽい性格である。
 この時代の(今も?)標準的日本人学生という感じだろうか。
 頭がいいので思考が常に動いているが、口に出さず腹のなかで相手を色々評している。また、わからない分野や見識には黙っていて、知ったかぶりをして適当な相槌をうつ。それでいて人付き合いは好きなようだ。結構すぐ苦悩するが、それほど引きずらない。
 学生であるということを除けば、美禰子の相手は三四郎でもいいような気がする。誠実で信用できる。

② 新しい女性像・美禰子
「馬券で中るのは、人の心を中るよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引の附いている人の心さえ中てみようとはなさらない呑気な方だのに」p.186

 美禰子は、男性に付き従う旧時代の封建的な女ではない。自分の意思を持ち、男性と自由に意見し、時に惑わせる。まさにしなやかな奔馬という感じだ。彼女は、新時代の女性なのである。
 また、彼女は英語を勉強しており、海外の文学や思想に明るい。

 顔つきも、洋画家の原口が彼女にモデルに頼むように、近代的な美しさを持っている。
 三四郎も原口も、彼女の顔の中では、彼女の「目」に最も惹かれているのだが、それは単に造作が綺麗なだけではなく、彼女の目が、彼女自身を、つまり意志を強く写し出す目だからだろう。
 彼女の目は、時に鋭い視線を投げかけ、男を嘲笑し、苦悶の表情を浮かべる。封建時代の女とは違う自由な意志を持ってくるくると動き回る。

 知識人達は外国の小説に出てくる新しい女性像を彼女に重ね合わせる。こういう女を知ると、もう従来の従順な女に魅力は感じられないに違いない。
 しかし、このような女性に魅力を感じる男性が表れた、というのは時代がかなり進んだ感がある…。西洋かぶれているのだろうか。

 妖婦型と淑女型にわけるとしたら美禰子は明らかに前者だろう。とにかく注意を惹く女だということは確かだ。
周りの男達はよく彼女の噂話をしている。
 三四郎や野々宮に気があるそぶりを見せたあげく、ほかの男と結婚してしまった美禰子は、果たして悪女なのだろうか。二人は彼女にたぶらかされていただけだったのだろうか…。
 三四郎が、美禰子のセリフや行動に「愚弄」されたと感じる場面があるが、私はちょっと違うと思う。やや高慢な女ではあるとは思うが…
 ③で詳しくその理由を述べたい。


③ ストレイ・シープ(迷える羊)
 「ストレイ・シープ」は、美禰子が何度も三四郎に向かっていう有名なセリフ。「迷える羊」とは、三四郎だけではなく、美禰子自身の事でもある。むしろ三四郎より彼女の方が、「迷える羊」なのである。
 ちょっと見には、一見自由に生きている美禰子に、この言葉は当てはまらないような気がする。結婚だって、三四郎でも野々宮さんでも彼女なら誰とでも結婚できそうである。しかし、美禰子は自分の将来と結婚に関する苦悩と葛藤を抱えていた。

・明治の女性と結婚
 この彼女の葛藤を理解するには、この時代の背景を理解する必要がある。
この時代、通常、女性は10代後半で結婚する。女学校の在学中に結婚する女性も少なくない。(なんのための学校なのか…)
 そして、結婚せずに卒業した女性は「卒業面」と言われる。
いわく、美人は在学中に嫁に貰われていくため、卒業者=不美人の代名詞ということだ。
 美禰子は明らかに違うが…
 しかし、彼女は三四郎と同年代というから、22,3。すでにオールドミスのような年齢に達している。

・余談だがこの「卒業面」について書かれている井上章一氏の「美人論」がとても面白い。当時の女学校の、授業参観によって生徒たちを(有力者に)一般公開、結婚を斡旋するという驚きの結婚システムが詳しく書かれている。もちろん、美人から順に売れていく。まるで美術品オークションのよう…


 話を戻すと、ある一定以上の家の女性は、普通自ら生計を立てる手段を持たない。そのため結婚して夫に養ってもらう必要がある。結婚は、いわば女性が生活していくための手段なのである。
 当時の結婚は、一緒にいて楽しい、馬が合うとかよりも、家同士が釣り合うか、男性が経済的に女性や家族を養っていけるかが、重要であった。
 いくら新時代の女性でも、経済問題となると、よっぽど資産家の娘でない限り、社会的弱者である。職業婦人が定着するにはもうちょっと時代を下らなくてはならない。 
 両親を早くに失い、稼ぎ手である兄も近々結婚してしまう美禰子は、自身の結婚を実際の生活問題として捉えていた。

 ではなぜ、美禰子の周りの男性たちは彼女の結婚相手たり得なかったのか。
 美禰子が想いを寄せた相手について、個々に見ていきたい。


・美禰子と野々宮さん
 まず美禰子は、最初、三四郎の同郷出身の先輩・野々宮さんを好きなそぶりであった。
 しかし、野々宮さんは収入面で彼女の結婚相手としては、却下であろう。
 美禰子にみすぼらしい思いをさせてはいけない…彼女はそういう女ではない。豪華な着物を、惜し気もなく汚い地面に着けて座っているような女だ。

 それでも美禰子は、もし野々宮さんが真剣に彼女との将来を考え、決心してくれたとしたら、プロポーズを受けたのではないか。美禰子は、彼の研究態度を尊敬している。
 また、彼女も英語が得意で聡明なので、彼の稼ぎが十分でなくても、何か文を書いて家計の足しにすることができそうな気もする…
 私もこういう研究熱心で朴訥なタイプはよいと思う。
 しかし、こういう学者にはありがちなことだと思うが、女性のことよりも研究一徹の彼は、研究に集中するために下宿生活へと戻ってしまい、美禰子と結婚する機会を永久に失った。彼女も落胆したことだろう。そのあと、彼の前で三四郎にくっついて見せつけたり、「責任を逃れたがる人」など彼を非難する言葉を吐いていることからも、それがうかがえる。


・美禰子と三四郎
 個人的には、三四郎は、誠実だし、実家は田舎だが豪農っぽいので、美禰子と釣り合うと思うのだが…。
 
 では、なぜ三四郎ではだめだったのか。
 無論、三四郎がその時点で、経済力を持たない学生であるためだ。
 この時代、男女の結婚適齢期には大きな開きがある。
 オールドミス・美禰子には、三四郎が社会人になるまで待つ時間は、もう残されていないのだ…事態はかなり逼迫している。
 では美禰子の思わせぶりな態度は何だったのか。最初から結婚する気がないのなら、そんな態度を取らなければ良かったのではないかというのも、もっともである。

 ここで私は美禰子の弁護に入ろうと思う。
 美禰子が、自分のことで三四郎を悩ませて愉しんでいるというのは、少々違うと思う。多少三四郎の被害妄想も入っているのではないか。
 ちなみに漱石も、女中など周りの女達が自分の悪口を言っていると思い込んだり、バカにされたと思ってキレたりすることが、しょっちゅうであったという。この彼の神経症の話は、岩波明著の「文豪はみんな、うつ」に詳しい。
これらの漱石の被害妄想は、自身の対人関係の中での会話や態度に対する自信のなさからきているのだと考えられるが。

 そして、三四郎もやや美禰子を妖婦と見ている。確かに美禰子は本心が分かりづらい女である。
 一見、三四郎を弄んでいるようにもみえる。
 確かに人並み以上の美貌と才気を持っていれば、そのようになっても仕方ないかもしれない…。しかし、彼女は三四郎のことを何とも思っていないのに、ただ思わせぶりな態度を取っていたのではない。
 私も最初は「三四郎の事を結局なんとも思ってなかったんじゃないの、美禰子ヒドくない?」と思ったが、あとがき解説を読んで、なるほどと思った。
 これは、新潮文庫のあとがきの解説にもあるが、美禰子が絵のモデルとなったときに描かせたのは、三四郎と大学の池で初めて会ったときのポーズであった。
 彼女が描いてほしがったのは、彼女の独身時代の中で自分の最も輝ける日の一ページだったのである。
 それは三四郎と出会った日であった。
 これを大切な思い出として絵にして残すことで、彼女はその思いを封印して結婚を決意したのだろう。
 そこには深い思いがある。
 
 そうしてみると、彼女の三四郎への態度もセリフも、彼女なりに悩んでいるからこその行動と思われる。
 つまり、三四郎が自分の結婚相手となりうるか、見極めようとし、彼の反応を試していたのではないか。4.5年待つに値する相手かどうか、彼女なりに品定めしていたのではないか。
 結局、三四郎は彼女のおメガネにかなわず、美禰子はほかの人と結婚してしまうのだが…
 彼女はロマンティック・ラブ・イデオロギー(恋愛結婚)に憧れながらも、時代と自身の境遇がそれを許さないことを知っていた。

 でも、彼女は最後までかなり迷っていたと思う。迷っていたからこそ、三四郎と最後にあったときこのセリフを言ったのではないか。
 「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」p.280


 余談になるが、ほかの人物は、結婚相手としてどうなのか。
 例えば、三四郎の友人・与次郎は調子が良くて如才ないタイプなので、この中で一番給料を取りそうではある。文学への熱もありそうだが、器用そうなので月給取りになりながら、文筆をするというような二足のわらじを履きそうだ。
 彼には、行動力があり、人を動かす力がある。「広田先生を帝大の教授にする活動」に関する文芸や演説はすごい。まさに時代を背負っているという意識を持つ新時代の学生だ。
 反面、口が上手く相手に構わず生意気な口をきく、金を返さないなどの欠点がある。
 また、女性に関しては意外と冷淡で、「女は自分と同世代の男を相手にしない」だの、「美禰子を好きになっても仕方がない」と三四郎に忠告する彼はとても賢いと思う。
 商売女には自分の素性を知らせず、医大生だと騙し、別れるときには研究が忙しくなって遠くへ行くことになったと平気でうそをつくなど、なかなかの食わせ物だ。
 しかし、彼も現時点で学生という点で落第である。なかなか大物になりそうなので惜しい...。

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引用文献
・「三四郎」夏目漱石 新潮文庫(1948)
・「美人論」井上章一 朝日文庫(2017)
・「文豪はみんな、うつ」岩波明 幻冬舎新書(2010)

⑨-1「三四郎」夏目漱石/1908年

「三四郎」夏目漱石 1908年(明治41)
~新時代の学生・三四郎の青春と恋の苦悩~


 個人的に、明治の青春という感じがとても好きである。全体を通してどこか明るさが感じられ、現代と相通ずるものがある。同様の理由で「坂の上の雲」の前半部分も相当好きなのだが…
 主人公が、夢と希望に満ちて上京、国と時代が活気に満ちていて東京はその中心地。見るものすべてが真新しく圧倒される感じ、新しい出会い、友情…
この筋だけなら、明治を描いた小説としては、多々あるのだろう。私が漱石作品で「三四郎」を特に好きな理由は、多分にヒロイン・美禰子の存在によるところが大きい。美禰子が出てこなければ、本作の面白さは半減しただろうとさえ思う。

 また、漱石作品は主人公の心情描写や周りの情景描写が細やかで、描く性格がとても日本人的。かなり共感できる。主人公・三四郎は静かなたちなのであまり感情をあらわにしないが、心中では常に感情の嵐が吹き荒れているのが面白い。
 人物の動きも逐一細かく、三四郎と美禰子の出会いの場面など、文章を読むとスローモーションで脳内再生できるほどである。  理屈っぽい言い回しにいちいちユーモアを挟んでくるのは、もしかしたらイギリス文学や留学生活から覚えた技かもしれない。
 上手い文が多いので、引用したい文章が多すぎて困った。

~あらすじ~
 帝国大学に入学するために熊本から上京してきた三四郎は、東京で、同じく帝大生の与次郎や彼の下宿先の広田先生、同郷出身の野々宮さんなどに出会い、親しくなる。
 そんな中、野々宮さんの友人の妹・美禰子と出会い、惹かれていく三四郎だが、彼女の本心がわからず、心の中で苦悩するようになる...


①三四郎の東京生活と明治の青春
・新しい価値観
 三四郎は、上京してくるまでは、いくら書物で学問を学んでいるとはいえ、地元の熊本のみが彼の生活や思考を作る全世界であった。上京し、日本だけではなく世界を見据える目を持つ、新時代の知識人の価値観に触れる。

三四郎:「然しこれからは日本もだんだん発展するでしょう」
広田:「亡びるね」「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」
    「日本より頭の中の方が広いでしょう」「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
  この言葉を聞いたとき、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った。P.21


三四郎が「東京に来た」ということを強く感じる象徴的な場面だと思う。(まだ汽車の中だが…)大都市の西洋建築や文明的な設備、人口の多さよりも、広い思考や価値観を持つ人に出会ったときの新鮮な驚きの方が、彼により強く「東京」を感じさせた。

 ここで彼が自分を「卑怯」と評したのが、興味深い。九州は明治維新を成し遂げた志士たちを多数輩出した土地だ。
 このような風土で生まれ育った三四郎は、「日本の未来は明るい」と信じて疑わなかった。そのような周りの意見をうのみにして、 自分の頭で物事を考えようとしなかった自分や、当たり前を当たり前と信じて疑うことをしなかった自分を「卑怯」だと思ったのだろう。

  しかし、広田先生は先見の明がある。この「亡びるね」発言に、三四郎は、「どうも日本人じゃない様な気がする」とすら言っている。日露戦争に勝利した直後で「これで日本も一等国」と世間は沸き立っている時代である。
 この時点でこの先起こる泥沼戦争をどうして予測できようか。
 広田先生にこの発言をさせた漱石は、その留学経験から、広い視点で日本を見ることができていたのだろう。
 その前にも「どうも欧米人は美くしい。お互いは哀れだなあ」と日本を卑下する言葉が満載。
 漱石先生の「調子に乗るな、世界と肩を並べるにはまだ早い」という訓戒が込められているような気がする。

・新しい仲間
 三四郎は呆れ返った様な笑い方をして、四人の後を追掛けた。四人は細い横町を三分の二程の広い通りの方へ遠ざかった所である。この一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本当時のそれよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。P.112

 三四郎はある日、東京で親しくなった、美禰子や広田先生、野々宮さんと彼の妹のよし子と一緒に菊人形を見に行く。この一文は、三四郎が、単純に新しい仲間ができて喜んでいる文章ではない。(もちろん、喜んではいるのだが。)
…最後まで読むとそのことがわかってくる。

 彼は東京に来てから、自分を取り巻く世界を、第一から第三までに区分して考え始めた。
 第一は故郷・熊本を取り巻く世界。第二は広田先生、同郷出身の野々宮さんのような、世間の評判を気にせず、出世を求めず、自分の研究に勤しむ暮らしをしている人々。第三は、立身出世を果たし、美しい女性とともにある世界。
 まさしくこの瞬間、彼と新しい仲間は、第二第三の世界にいる。三四郎はまだ自分がどちらに属するのかわからない。それくらい、彼の未来はまだ遠い。

  いつも野々宮さんと美禰子が親しい様子なのが気になり、彼らの仲をずっと疑って、二人が結婚するのではないかと考えていた三四郎だが、これが全く見当違いなことがのちに判明する。
 この区分で分けるならば、野々宮さんは第二、美禰子は第三の世界の住人。

 美禰子は第三の世界の住人たる人と結婚してしまう。この小説では異なる世界の人々は決して交わらない。
 ましてや、この区分に区分けできない学生・三四郎には、美禰子の結婚相手として名乗りを上げる資格すらないということになる。
 
 このような切ない展開を踏まえて読むと、上記の一文は、在りし日の思い出の描写として美しいワンシーンである。

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・「三四郎」夏目漱石 新潮文庫